白花の特権
第116回 お題「紫陽花」「寛容」
重く濡れたアスファルトの上、かたつむりはじっとりした滑り気を帯びてのろのろ這っていく。エイデンが軽く指でつまみ上げ、花の陰に隠してやったのは、いつ通行人へ踏み潰されるか心配した訳ではなく、単に視界へ入ってくる緩やかな動きへ焦れたのだろう。奴の衝動性はいつでも並列する美徳を台無しにするが、どれだけ嗜めても矯められることはついぞ無い。
「そんな事ないよ。僕だって、この子が人に踏まれて欲しいとは思わないよ」
助けられたにも関わらず、ツノを出して威嚇されようと、エイデンは一向に頓着しない。捲ってまでして様子を確かめるものだから、それまで辛うじて葉の上へ留まっていた雨粒が、丸っこい指へ向けて決壊する。濡れているのは手だけに及ばず、シャツの肩口や髪にも、ぱらぱらと雫は振りこぼされていた。
「この柔らかい殻が潰されてぐちゃぐちゃになってるのって、見てて楽しいものじゃないし」
「まあ、それは確かにな」
屈めた体に傘を差し掛けてやれば、こちらの背中が濡れる。それでもトレントは、ちっぽけな生き物に構っているエイデンのつむじをじっと見下ろしていた。
「かたつむりの殻は、身体と一体らしい。脱ぎ着出来ないんだと」
「そうなんだ。ヤドカリみたいに、窮屈になれば新しく大きい殻を探しにいくのかと思ってた」
立ち上がりざま少しよろめき、丸っこい肩が相手の胸にぶつかっても、エイデンは謝罪の言葉を口にしなかった。寧ろそのまま、少しでも濡れないようにと一層身を押し付ける真似すらする。
「じゃ、エスカルゴって物凄く残酷な料理だね」
「美味いのか、あれ」
「トレ、食べたことないの? 今度行こうよ」
「お断りだ、幾ら頭がおかしくなっても、あんなナメクジの出来損ないみたいな奴を食うほど落ちぶれちゃいない」
思わずそう吐き捨てたのは、食わず嫌い故ではない。寧ろ一度、機会を得たことがあり、そしてそれが苦々しい記憶へ結びついているからこそ、二度と繰り返したくないと思ってしまう。
「そこそこお高いが気取らない」フレンチの店へトレントを連れて行ったのは、他ならぬエイデンの父だった。あの男は居心地の悪さを不遜な態度で隠す若い愛人に、にやにやとだらしなくやにさがっては囁いたものだった。「君は牡蠣の方が好みかね。結構、私はそう言う男がタイプなんだ」
蒸し焼きにされたかたつむりの臭みを誤魔化す為、たっぷり掛けられたにんにくのソースが鼻先へ吹き付けられても、あの時のトレントは薄笑いを浮かべ紛らわす事が出来た。実際、注文された牡蠣は大粒で美味かったから、その後に男が股間へ顔を埋めてきてもまあ、対価と思える。
「僕もあまり好きじゃないけどね。軟体動物だと思うから良くないんだ、触感も味も貝に似てると思うよ」
「馬鹿言え」
トレントが全く取り合おうとしないので、とうとうエイデンは口を噤み、ただ肩を寄せてくるだけになった。半袖から覗く腕が、ぶるりと震えたのを、触れ合う場所から感じ取る。思ったよりも気温は下がり、Tシャツ一枚では少し肌寒い。特にエイデンは普段から厚着をしがちだから、余計に堪えるだろう。肩を抱いてやろうかと思ったが、片手には傘、もう片方の腕には買い物袋。エイデンは「僕が持つよ」と言ったが、そんな事しなくていい、と答えたのは、全くの気まぐれだった。今更ながら、持たせておけば良かったと思う。手ぶらのエイデンは全く身軽だった。少し目を離せば、この雨など一向に頓着せず、傘の外へ飛び出して行きかねない。
「かたつむりには毒がある」
溜め息混じりにトレントが口火を切った時、重たげに瞬くのは短く濃い睫毛だけ。見上げてくる煉瓦色の瞳は、想像していたよりも輝きが鈍い。
「そうなの?」
「そもそも紫陽花の葉に毒があるからな。そんなのの周りをうろついてるってことは」
「何だか単純過ぎる理論な気がするけど」
ほろ酔い加減と言われてもおかしくない程ぼんやりした様子の癖に、エイデンは生意気にも唇を尖らせる。
「毒の周りをうろついているから、その生き物も毒なんて」
「少なくとも耐性があるのは確かだろ。現実を見てみろ。そんな奴は碌でもねえ」
類は友を呼ぶ。掃き溜めに鶴はおらず犬ばかり集まる。雨に打たれ、路傍の排気ガスに晒され、散々と薄汚れた大して綺麗でもない花の威を借りる醜い軟体動物。
「そう考えたら、お前みたいだな」
「ええっ?」
揶揄に対し、エイデンは明らかに不満を覚えている。が、もはや奴は、抗議にも一言投げかけるのが精一杯。疑問符が抜け落ちた声の抑揚は、傍らの二車線道路を通り過ぎる4WDのエンジン音へ、滲ませるようにして消される。案の定、身体も跳ねかけられた水飛沫を予想もしなければまともに反応もしないから、トレントが腕を掴んで引き寄せてやらねばならないほどだった。
紙袋から一つ、転がり落ちたマッシュルームの缶詰を、エイデンは屈んで拾おうとした。けれど従順で、すっかりくたびれ果てたガキが、急き立てる大人の力へ抗えるはずもない。
「落としたよ」
「施しだ。さっき雨宿りしてたホームレスが喜ぶだろうよ」
触れるつもりはなかったのに、いざ手の中へ入るとなれば。こうなるのが分かっていたから嫌だったのに。うんざりと首を振り、トレントは後5分の家路を出来るだけ急いで踏破すべく、歩調を益々早めた。よろめきながら付いてくるエイデンが振り解こうとしないことに、倦怠は強まるばかり。まるで肌を通してこいつから流れ込んで来たようだ。
「僕が紫陽花なら良かったのに」
ありとあらゆることは煩わされていたからだ。消沈した抑揚で呟くエイデンを叱らなかったのは。何せトレントにはあの気色悪い生き物と違い、立派な足が付いているから、その気になれば生意気を抜かすお坊ちゃんを蹴り飛ばすことなど全く容易かったのだから。




