酔ったら風呂には入れない
第115回 お題「月曜日」「一週間」
講義が終わり、トレントに駅まで迎えに来てもらう。テキストは送っていたし(主にエイデンが投げたメッセージへ、トレントが既読マークをつけるということの繰り返しだが、これも間違いなく繋がりの一つではあるだろう)何度か通話もした。けれど実際に、顔を合わせるのは久しぶりな気もする。
エイデンの甘ったるい訴えに、トレントはさも呆れた様子で鼻を鳴らす。予想はしていたことだが。
「そんなことねえよ。ちょうど、いつだ、ああ、先週の月曜日も会っただろ」
「結構経つね」
仕事の休憩時間に抜け出して地下鉄の出口まで歩き、それから到着した相手を連れて戻る。家に行ってていい? とか、顔を出すよとか、幾らでも言えたのに、エイデンは今日、トレントの厚意に甘えた。それに、結局のところトレントだってこの行為を気に入っているのではないかと思う──並べた肩は触れ合いそうな位置、時々手が無骨な手が背中に触れ、指先がうなじや襟足を撫でる。それに、くくっと愉快そうな音色で含み笑いを転がし、喉の奥から惜しむよう言葉を吐き出すのは、店の入り口へと続く裏口へ入るまで待ってくれた。
「今日はあいつがいるからな。酒を頼むたびに掴みかかるような真似はするなよ」
暗がりで生ゴミの匂いに囲まれながら浮かべられる、エイデンの露骨な暗澹の様子は、トレントを大いにご機嫌たらしめたらしかった。核シェルターを思わせる、暑く飾り気のないドアを押しながら、まるで相手が赤ん坊であるかの如く、甘ったるい微笑を浮かべて顔を覗き込む。
「もしちょっとでも面倒起こしやがったら……」
「叩き出すんでしょ」
不貞腐れた返事をぼやいた頃には、既にトレントもすっと身を離し、お立ち台へと足を向けている。せっかくのかぶりつきの席で突っ伏する酔客の椅子を蹴飛ばし、「注文しないなら出てけ」と叱り顎でしゃくる姿は、7日ぶりのトレント・バークを惚れ惚れするほど感じ入らせる。全く腹立たしく、よろしくないことに。
男の中の男、ミスター・バークへ時々組み敷かれてよがっている金髪のバーテンダーは、またあの整備員に暴力を振るわれたのだろう。スーツへネクタイ姿なら容易くヤッピーへ化けられそうにハンサムな容姿なのに、彼の全身が全く無傷であることなど3回に一回しか見たことがなかった。
今も仕切り台にブランデー・ジンジャーを押し出す右手には、大きなガーゼと包帯で固定されている。「まだ週の始まりなのに、飛ばすつもり?」本人はいけしゃあしゃあと抜かし、何もかもを素知らぬ振りするのが格好いいと思っているらしい。
「二時間でどれだけ飲めるかな」
今夜はまだ一口もアルコールを含んでいないのに、立てた肘の内側へ顔を埋めるよう身を丸めながら、エイデンは呟いた。
「彼の残業がなきゃいいんだけどね」
「大丈夫だよ」
ついさっきまで、トレントのペニスをしゃぶっていたかも知れない赤い唇が、ゆったりと、少なくともそう見えるように弧を描こうと努力される。じっとり、うんざりと上目を放ち、ついでに溜息を押し出すくらい許して欲しい。グラスを掴みながら、エイデンは仕方なく尋ねた。
「手、大丈夫なの?」
「まあね。モンキーレンチを叩きつけられたんだ。彼が最近、アボカドを嫌いになったの、すっかり忘れて、サラダに入れたから」
「家庭的なんだね、貴方って。いい恋人なのに」
本当は「ひっどい」と侮蔑も露わに吐き捨ててやる予定だったのに。一番安いランクのヘネシーが、しみじみと口の中へ沁み渡ったら、思ってもいない言葉が舌に乗っていた。青年も明らかに動揺し、ハッとなって視線を逸らす。
「そんなことはないんだけどさ。恋人の好みを忘れるくらいだし」
「だからってモンキーレンチなんて……骨折しなかった? そうだよね?」
「彼はそういう力加減が上手いんだよ。この前だって……」
まるでこの時を待っていたと言わんばかりに身を乗り出し、捲し立てる青年を、好意的に思ったことなどない。だって好きな人が現在進行形でファックしている相手だ。なのにエイデンは、だらけた姿勢のままちびちびドリンクを啜り「ふうん」とか「そうなんだ」とか。何よりも驚いているのは、己が全く平穏な精神状態のまま、この青年と向き合い続けられている事実だった。
「まあ、彼だって良いところもある訳だし。誕生日なんかマメに覚えてるんだよ。君は?」
「え?」
尋ねられ、何故かエイデンはその瞬間、咄嗟に背後を振り返った。それまで薄々感じてはいたが、やはりトレントはクアーズの瓶を片手に壁際へ寄りかかりニヤニヤと、いかにも上機嫌な笑みを浮かべている。いつか、大学の同級生に言われた事を思い出した。「毛色の違う2人を並べて楽しみたかったんじゃ無いか」
淫靡で色鮮やかなフットライトに照らされるストリッパー達の魅力的な裸姿でなく、暗がりに沈み込むコバルトブルーの瞳だけが、エイデンの肉体を昂らせる。同時に目の前の白猫は、どれだけ親しげに振る舞い、また友達になれる可能性を秘めていたとしても、エイデンの心に爪を立てるのだ。
爪は立てられても引き裂かれはしない。そんな事をしても武器が根本からぽっきり折れて、痛い目を見るのはこの青年だ。分かっているから、エイデンはグラスの中身を飲み干し、ふふっと唇の先だけで笑った。
「よく分かんない、何せ僕達、まだ始まったばかりだし。これから色々楽しめるよ」
「殴られても楽しめる?」
回答へ露骨に不満気な様子を見せ、鼻を鳴らす青年に、わざわざこう付け足すことは億劫だ。殴られるのも──確かに痛いし、嫌なことだけれど、それもまた楽しいことに繋がる。人生は連続体、明日がいきなり金曜日にならない事を、ここのところエイデンもようやく理解しつつあった。
最後のトレントがどのような表情を浮かべているか、もはや一々気になどしてやらない。己がすべきことは、空になったグラスを掲げておかわりをねだるだけ。そしてその望みはすぐに叶えられた。これ以上、焦れる必要なんて、一体どこにあるのだろう!




