グリーン・インフェルノ
第114回 お題「初夏」「緑」
元妻から手紙が来た。このご時世に、しかもお互いの連絡先はまだスマートフォンに格納されているにも関わらず。
酷く淡々と、しかし出来る限り丁寧かつ礼儀を失しない文体で請われたのが借金の申し出だと、一枚目の便箋の末尾辺りまで読み進めなければ分からなかったと言えば、その慇懃さも周囲に理解できようというものだ。
飲み込めなかったのは子供だけ。トレントが笑いながら振り翳して見せた封筒を、エイデンはひったくるように奪い取ると、その場で中身ごとびりびりに引き裂いてしまった。それから、ピリピリした、しかしどこか高らかさすら含んだ声で、叩きつけるのだ。
「お金貸そうか?」
「だから、渡さないって言ってるだろ。慰謝料はもう払い終わったし、どんなに親しい間柄でも、金のやり取りをしたら関係がおかしくなるもんだしな」
事実、壊れたスロットマシンの如く、トレントを始めとする愛人達に向けて金を吐き出し続けていたエイデンの父は、親戚中の顰蹙を買って孤立した。しかも周りから否定されればされるほどムキになり、これみよがしに財布を出そうとする。
思えば、あの時狂っていたのはあの孤独な金満家の中年男だけでなく、自らもだったのではないかと、この期に及んでトレントは冷静に分析していた。主人になるのもまた才能が必要なのだ。無害な従属を向けられると、人は呆気なく堕落する。
何はともあれ、今はこの、完璧に有害で嫉妬に狂う怪物へ上手く対処せねば。痙攣しそうなほど緊迫で細められた瞼の奥、本来レンガ色であるはずなエイデンの瞳が、きらり、もっと明るい色味で鋭く輝く。毛を逆立てた猫ですら、もう少し可愛げがあるだろう。
「さっさと縁を切ったらいいのに」
「切れてるよ」
「どこが!」
唾を吐きそうな勢いで食ってかかるエイデンの手は、振り回されても相手を引っぱたく度胸はなく、かと言って一度掲げてしまった手前、容易に引っ込めることは難しい。汗ばんだ手のひらを己の手で掴むと、トレントはもがく身体を力づくで導いた。何度か足踏みするよう抵抗するものだから、ダイニングテーブルに腰がぶつかる、シンク下の扉を蹴飛ばす。狭い台所が不機嫌な音を立て、けれどそれに反比例するよう、エイデンの威勢は失われていくのだ。
ポーチから外へと引き摺り出した頃には、お坊ちゃんもすっかり消沈して、相手の手を握り返す。反対の甲で、小さく啜る鼻を拭ったのだろう。「トレ」幾らか涙を呑み、嗄れた声が、そっと訴える。「貴方がもう、奥さんのことを何とも思ってないのは知ってるよ。でも……」
「さあ、いいから、その可愛い膨れっ面を、もっと可愛い笑顔に変えてくれよ」
出来るだろ、と猫撫で声で脅しつければ、口角が引き攣るような形で持ち上がる。「違うだろ」と冷たく指導すると、唇は殆ど弓形に硬直し、細められた目には涙の潤みが一杯に行き渡る。
それでいい。こんな5月の気持ちいい季節に、陰気な顔をしているなんて勿体無いことこの上ない。それにエイデンが可愛いのは全くの事実だった。春になって辛うじて息を吹き返した街路の楓は蒼い葉を枝々に萌え広がらせる。庭にまで踏み込んできた木漏れ日の下、トレントは背後を振り返った。エイデンはまず怯えたような上目を向け、それからめい一杯引いていた顎を持ち上げる。その間もずっと、手は繋いだまま。
「いいか。お前は学ばなきゃならない……外に出るってことをだ」
「今でも頑張ってるよ」
「そうだな。だが世間はそれじゃ、不十分だって言うだろうな」
「そんなのやだよ……」
むずかりを、葉擦れが優しく無慈悲に攫っていく。更に引き寄せて肩を抱きながら、ゆっくりと歩く姿は、弟を慰めている兄のようにも、親友同士のようにも見えるに違いない。優しいという言葉は少し当てはまらないだろう。頼り甲斐のあるとか、指導力に優れたとか、少なくともそんな表現は、語彙力の貧困な近所の連中だって持ってくれるに違いない。
そもそも引っ越してきて以来、周辺住民と然程交流を持っていないのだが……いや、笑顔には笑顔を。エイデンは家の前を通りかかる人と遭遇するたび、垣根越しにちゃんと挨拶を返す。その辺りの教育はしっかりと施されているのだ。だから家に来ても追い出さないでいる。
良い服を身につけ、いかにも育ちの良さそうで屈託のない物腰の学生風情。ガレージにインパラとバルカンを置いている、男の中の男と言った見かけのミスター・バークが一人で暮らす家へ出入りするには、余りにも違和感が勝る存在だった。見かけだけで言うと、余りにもまともで、柔和すぎる。
今も、キャンキャンうるさい小型犬と共に通りを歩く老婆は、間違いない、まずエイデンの顔を見て「あら」と頬を緩ませた。それから、青年の浮かない様子を理解して、表情を案ずるようなものに変える。
「うちに住みついてた猫がいたでしょう。あいつに不幸があってね」
「まあ、そうなの。確か子猫もいたわよね?」
「いいえ」
首を振るエイデンの仕草は、消沈を隠すどころか、腹いせ混じりに相手へ突きつけるような勢いでこなされる。
「子猫は最初から……死んだのかも。トレは僕の実家で働いてた時から、ネコの扱いは上手かったのに」
昔馴染みの使用人のところへ遊びに来る坊ちゃん、と言う、事実なのだが無理のある過ぎる設定を、けれどその婆さんは飲み込んだか、完全に無視した。チワワへ引きずられるようにして去っていく後ろ姿を見送りながら、エイデンは自らの肩に掛かる手を、軽く引く。剥がしたいのか単に促しているだけなのか、脱力した体が擦り寄ってきたところを見ると、恐らく後者なのだろうが。
「こんなにいい天気なんだし元気になったら出かけるのもいいかもね」
抑揚の抜け落ちた口調から、トレントはおろか本人も期待していない願望の虚しさは否が応でも増す。仕方ない。トレント自身、こうやってちょっと外の空気を吸ったら、それで満足してしまった。刑務所の中庭を散歩する囚人が、外の世界へ憧れつつ憂うのと同じで──
何だそりゃ、酷い発想だな。思わず浮かべた顰めっ面を、エイデンは悪い方に捉えたようだった。この寂しがりが、そのまま益々、どう考えても一定の見方しか出来ない身の絡め方を深める前に、トレントはエイデンの肩を抱き直し、ポーチへと踵を返した。




