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四日熱

第112回 お題「五月病」「気分転換」

 簡単に言えば、連休から引きずり続けている怠惰だ。今日のエイデンは講義もサボり、一日中トレントの家で過ごすことに決めたらしい。かと言ってカウチでダラダラしている訳でもなく、朝8時に到着すると、24時間営業のスーパーで買い込んできた食料品で冷蔵庫を満杯にし、家中に掃除機を掛けた後は洗濯。ドラムが回っている間、遅れてきたコンマリ形式で不用物、と本人が断ずるものの片付けまで始めようとした時はさすがに止めさせたが。

 幾らかハイになっているとすら言えた情動は、ちょっと怒鳴りつけて頬を軽く張ってやることで、覚醒した平常心に鎮圧される。今のエイデンは全く大人しい、寧ろ消沈しているとすら言っていい。ガレージ脇のランドリールームで床に座り込み、乾燥機から取り出したトレントの服を使って遊んでいる。

 本来2人の身長差は1インチちょっとという程度。けれど着古したモノトーン・チェックのネルシャツは、羽織ったエイデンへ覆い被さるよう。そのまま裾を結べば完全にその身を包み込んでしまえそうにすら思える。事実、臍の上でゆわえてもみたし(オカマみたいだなと笑えば、かなり真剣にドン引きしたような眼差しを投げかけられた)一度脱いで眼前に掲げ、綻びやよれ具合を確認したかと思えば、再び通しただぶついた袖をくるくる捲る。襟元に鼻先を埋め、匂いを嗅ぐことすらした。機械が与えた熱と洗剤以外に何かを探り当てたのだろうか。くたっと柔らかく抜けた肩口へ頬を擦り寄せ、力無くも嬉しそうに口元を笑みで緩める。

 洗い物の山に囲まれた姿は子供のようにも、まだ家事にも家へ押し込められて夫に傅くことにも慣れていない新妻のようにも見える──幼い、と言う単語が、庭を横切りざま、窓越しに眺めたトレントの脳内へ一番に浮かんだキーワードだった。

 実際、普段から子供っぽいだの、情緒発育不全だのと罵られてばかりのガキなので、何もおかしな事はない。ただ、そんな子供が、今朝家を訪れざま、寝室のベッドでだらけていたトレントの元へ直行し、甘えた仕草でキスや愛撫を求めてきたのだと思うと、やはりおかしな気分になる。

 ところどころ生地の薄くなったリンネルに隠されているが、うなじや鎖骨など、エイデンの小麦色をした肌には、とても健全とは言い難い濃い鬱血が刻まれている。赤の他人がその痕跡を認めたら、さぞや激しいファックの様子を想像することだろう──未だ己とエイデンが、狭義の意味での肉体関係を持っていない事を、誰よりも訝しんでいるのは本人達に他ならなかった。

 家に戻り居間へ入ると、ローテーブルの上に投げ出されたエイデンのスマートフォンが着信を知らせる。実を言うと、昼前の今まで、既に数回同じ場面は遭遇しているのだが、その場にいる時ですらエイデンはデバイスを完全に無視、止めようとすらしないのだ。留守番電話へ切り替われば発信は終わり、その後追いかけるようにして今度は幾つかテキストが飛ばされてくる。

 しつこい馬鹿に、今回もデジャヴを覚えさせてやっだところで何も問題はない。けれど画面に表示される「教授」の文字へ落とした視線を、とうとうトレントは外す事が出来なくなった。

 通話ボタンをタップし、無言でいれば、「やあ」と低い音程の、柔和さと溌剌さが絶妙に混ぜ合わされた第一声が投げかけられる。なるほど、これは学者先生の声だ。「具合が悪いのかね」と続けられるのへ被せるよう、トレントは喉の奥の笑いを、思う存分相手に聞かせてやった。

「あいつは元気にやってますよ。ただ、今日は少し、学校へ行く気分が乗らないそうでね」

 短い沈黙の後、教授は「なるほど、驚いたな」と、それは嘘ではないのだろう。ジャングルの奥地で珍しい動物の死骸を発見した研究者の口調は、無礼を通り越しいっそ面白みすら感じる。

「君がサリヴァン君の言う『父のベイビーボーイ』か。いや、実在を疑っていた訳ではないが、こうやって実際に会話をするとなかなか感慨深い」

「こちらこそ、お噂はかねがね。奴が借りたお宅の息子さんの服、幾らかうちで置きっぱなしにしてあるから、持って帰らせなきゃな」

「いや、急がなくても結構。どうせあいつは無くなった事にも気付いていないさ」

 深々とした溜息は、彼が息子と上手く関係を構築していると如実に示している。そうして教え子を丸め込みベッドへ連れ込んだかと思うと、そのパートナーにまで。学術的好奇心が全くないかと問われれば嘘になるだろうが、これは間違いない。教授はとんだ人たらしだった。

「サリヴァン君は君の家か。彼の校内における成績は芳しくないが……興味のムラがあると言った方が正しいのだが。私の講義を休むことは稀なものだから、気になってね」

 生きているのを確認さえ出来れば良いんだ。そう機嫌良く返す、この徹底的なシンパシーのなさと、程良い探究性を、「研究対象」もお気に召しているのだろう。

 この男と戯れるエイデンの姿を想像する。先程ネルシャツへしていたのと同じく、図書館で熱心に学術書を読み耽る後ろ姿。丸っこい肩に皺の寄った手が掛けられる。振り仰ぎ、笑顔を浮かべた青年の顎を指は捉え、老教授も赤ん坊をあやすような微笑と共に──

「明日には戻りますよ、恐らくは」

 狭い箱のような建売住宅の天井を見上げ、唇を捻じ曲げた姿が見えていたかの如く、教授は笑った。

「君も手を焼いているようだね。まあ、彼はいつも退学ギリギリの成績で頑張っているし、サリヴァン君の兄上もそれは心配しているようだから」

 あいつ、そんなことまで喋ってやがるのか。全く無摂生にペラペラと。

 噛み潰した苦虫を飲み込んでやりなどしない。あのガキが他の男と寝るのは結構だ。男は冒険と危険を好む生き物だから。それに偶には何も考えず、クタクタになるまで肉体的な快楽に溺れたい日だってあるだろう。己だってそうだ。それにどうやらあの教授、身を差し出す(と言うのには様々な意味が含まれる)ことでエイデンに単位をくれてやっている節がある。

 それにしたって。全くいけすかない生き物だ、学究の徒という奴は。

 足音も高くランドリールームへ踏み込んだ時、こちらへ向けられたエイデンの表情と言ったら見ものだったし、何よりも無理矢理唇を奪われた驚きようや恐慌と言ったら!

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