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第109回 お題「スーツ」「イメチェン」

登場人物が第三者と関係を持っていることを示唆する描写があります、ご注意ください。

 トレントの務めるストリップ・バーは、従業員のドレスコードを定めていない。当然の話だ、ここは裸の女を眺めにくる場所なのだから。

 それでも、トレント・バークという男は、元々警察官なんかやっていた人間だ。バーテンダーの金髪の子みたいに、ジーンズとTシャツ、すり減ったコンバースなんてことはなく、一応ジャケットを羽織っている。その方が貫禄がつくのだという。舞台の上のダンサーをベタベタ触りたがる不届き者は、ある程度きっちりとした格好をした強面の男が近付いてきたら、伸ばそうとした手を引っ込める。

 今日は8時間勤務の後そのまま迎えにきてくれたので、ダークグレーの背広も白いワイシャツもどこかくったりしている。深夜12時27分、53番街駅の地上出口で待たされること15分。時間を潰そうにも、もはや周囲で店を開けているのは酒を出す店くらいのものだ。どこかへ(勿論、トレントが勤めている以外の場所だ)入って一杯引っ掛けようか、じりじりしていた矢先に、インパラは滑り込んでくる。助手席のドアを開けば、車内に封じ込められていたも匂いが顔へ直撃する。運転手の使うブルガリのフレグランスの薫香に混ざる、日々の労働で蓄積された体臭──といえば悪いもののようだが、エイデンはトレントが本来発散する、この燻したような匂いも嫌ってはいなかった。寧ろ、流れてきて纏わりつかれると、服従の誘惑にすら駆られてしまう。

「仕事、お疲れ様」

「おう」

 律儀にシートベルトを締めるエイデンを横目に、トレントは小さく鼻を鳴らした。

「教授のご機嫌は麗しかったか」

 気付かれたのは、まだ微かにシャワーの水気を残した髪のせいかと思ったが、コバルトブルーの瞳が注視するのは、ジャケットの下へ身につけたシャツらしい。教授からの借り物だ。正確には、彼の息子のもの。借りる自分も良くないと分かっているが。エイデンはいつでも内心、必ず釈明していた。何よりもデリカシーがないのは、息子の服を愛人に貸す教授に他ならない。ワードローブから想像するに、親子揃ってプレッピーな趣味をしているらしい。普段のエイデンは、ボタンダウン・シャツなど決して身に付けなかった。

「まあね。相変わらず上機嫌だよ」

 だぶつく袖口をつまんで軽く引っ張りながら、エイデンは俯いたままぼそぼそと言葉を口の中で噛んだ。

「講義ではかなり辛辣な人なんだけど、プライベートでは……ううん、というか、僕に対しては、かなり甘いからね。分かりやすいくらいに」

「おいおい、俺は怒ってないぜ。結構じゃないか、ケツを差し出したら単位が貰えるんだ」

 そうじゃない、と不機嫌に当たり散らす権利など、勿論エイデンは持ち合わせていない。ますます顎を引き、己でも卑屈だと分かりきった上目を突き刺しながら、それでも、やはり口にしてしまうのだ。

「そういう話なら、トレが一番よく知ってるでしょ」

 今現在トレントが身につけているのは、彼が父親の運転手兼愛人をしていた頃にまとっていた服より、グレードはずっと落ちる。父は己のコンパニオンへ、みすぼらしい出立は決してさせなかった。

 それでも、恵まれた容姿は、吊るしの品でも十分立派な押し出しを作る。ハンドルをすっすっと、片手で軽く回す不遜な態度は、全く惚れ惚れするほどだった。

 まだ父が生きていた頃にも、こうして彼の、正確には父が所有していた車へ乗せてもらったことがあった。あの時も己は助手席へ……当然の話だが、父はトレントのものをしゃぶる時以外は、後部座席でふんぞり返っていた。

 例え隣に座っていたところで、今も昔もトレントは金持ちの軟弱な坊ちゃんに、咥えろと命じたりはしない。ただ、今の方が随分と気楽で、粗雑なことは確かだ。つまり、これが飾らない態度という奴なのだろう。

 他に違うところと言えば……シャツの襟元から覗く、日焼けして逞しい喉元から、鎖骨の辺りを目線で舐め、気付く。

「ネクタイはしないんだね」

「ああ?」

 黄色信号を乱暴に突っ切りざま、トレントは胡乱な唸りと共に目を眇める。彼がちっともこちらへ視線を流す気配などないにも関わらず、エイデンは軽く首を竦めて見せた。

「父さんに雇われてた頃は、いつもネクタイ閉めてたよね」

「そりゃあ、社長さんに雇われてた訳だからな」

 才覚がなかろうと、祖先から与えられた地位を手にしていれば社長と呼ばれる。傲岸な人間にすら敬意を払ってもらえる。裏を返せば、己には隣の男に対してのアドバンテージなどこれっぽっちも持ち合わせてはいないのだ。証拠に真夜中のイースト・ブロンクスを抜け、町工場の連なる下道を抜けている間に、トレントは空いた手でエイデンの髪をくしゃりと掻き混ぜる。

「生憎、俺はお前と違って、かっちりした格好は好きじゃないもんでね」

 その熱っぽい手のひらの分厚さと、今にも途絶えた街灯の光を反射させる首筋の汗ばみを、嫌うことなど出来はしない。手首から漂うウッディのラスト・ノート。彼は帰宅するやすぐさま、身に纏った何もかもを脱ぎ捨て、シャワーを浴びるのだろうか。例えどれだけ汚れていてもいいから、彼とキスをしたいと心から思った。父ではなく、己との生活の中にある彼と。

「大体、ああいう店で働いてて、誰がネクタイなんかするかよ。頭のおかしい酔っぱらいに首絞められたり、火でも付けられたらどうすんだ」

 化繊だから燃えるんだよ、シルクのネクタイ買ったげるよ。そんな野暮は辛うじて飲み込むことに成功する。結局今夜もまたエイデンは、眠気の作るむずかりと戦いながら、トレントの喉仏の奥で震える笑いを、暗がりの中からじっと凝視しようとするのだった。

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