ニューヨークは雨天
第7回 お題「東京」「晴天」
「Tokio estas suna」
片耳へ押し込まれたワイヤレスイヤホンから流れてくる声は、耳慣れない言語であることも相俟って、さながら機械で合成された物の如く聞こえた。大学内でエスペラント同好会というものを立ち上げた、ルームメイトが公開している動画だと言う。頭数合わせの為、エイデンも最近加入させられたらしい。この前動画チャンネルのURLを送ってきた。欠片も興味が湧かないので、クリックはしていないが。
エイデンは もう片方のイヤホンが示す通り、口の中で言葉を繰り返す。カウンセリングルームの待合室は静まり返っているが、他の患者達は注意すら向けようとしない。こうやってぶつぶつ独り言を噛む奴など慣れっこなのだ。もしも具合が悪い時は、連中自身がその立場へ陥ることすらあるかも知れない。
けどこいつは正気だぜ。青年の隣に腰掛けたトレントは、皮肉っぽく唇を捻じ曲げたくなる衝動に駆られて仕方がなかった。不眠や不定愁訴やパニックに悩まされる事など決してない。生まれた時から、或いはほんの幼い頃から欠落している状態が当たり前だから、上手く適応しているのだ。
「これは『東京は晴れです』と言う意味です。SVC、主語、動詞、そして補語。平叙文の文法は英語と同じです」
うっかり最初の「これは」まで口走ってしまったのはご愛嬌。スマートフォンの小さな画面を熱心に見つめる横顔へ、トレントはそっと耳打ちした。
「世界に普及していない言語なんか習って何の役に立つんだ」
「趣味として悪くないよ」
その言い草だと、趣味とはそもそも無価値であると思っているように聞こえる。実際、それが彼の考えなのかも知れないが。
「ところが疑問文は異なります。『Ĉu estas sune en Tokio?』平叙文の頭に疑問詞のチュを付けるだけで良いんです。他は変わりません」
ハンサムな顔立ち一杯に笑顔を浮かべて、一生懸命繰り広げられる下手くそな説明。家庭教師のアルバイトが斡旋されることは金輪際無いだろう。あんな二流大学へ通っているのだから、仕方がないのかも知れないが。
「彼ってさ。自分のこと吸血鬼だと思ってるんだよ。実際に飲んでるのは見たことないけど、出会い系アプリで知り合ったオカルト仲間から飲ませて貰ってるみたい」
『東京は晴れですか?」と復唱した時と全く同じ、淡々とした口調で世間話は続けられる。
「この同好会も、血液の提供者を募る手段なんだって」
「はあ?」
奇人が考案した人造言語よりも、そちらの方が余程面白い。それっきりエイデンが口を噤んでしまったのは、前を横切った午前中の最後の診察患者が、こちらを睨んだからだろう。正確にはそいつの母親の方が、じろりと険しく神経質な視線を投げかける。
「嘘だろ」
「かもね」
彼の、とも自分の、とも言わないエイデンがスマートフォンに落とすぼんやりした目付きを、酷く病的なものだと捉える。苛立ちを隠しもせず、明らかに浮かない表情で付き添い役に引っ立てられて行くティーンの少女を見送った後、トレントは腰を上げた。
「死ぬ程気になるじゃないか、そんな話。後で続き聞かせろよ」
そのまま診察室へ押し入るトレントへ、エイデンはやはり見向きもしない。「Tokio ne estas suna」抑揚の薄い声が、狭い室内の濁った空気へぼんやりと響いた。
ノックス医師が教えを請うていたキャプア医師は、非常に同情心の強い理想、人道主義者。だから味方たる検察側の証人であるにも関わらず、誰よりも手強いと警察内で散々な評判を頂いていた。
つまりある意味当てつけも兼ねて、トレントは裁判の際、エイデンの一族に弟子の方を弁護士側の証人として紹介したのだ。キャプア医師と不倫していたら奥方へ訴えられそうになり、大学病院を追い出され挙句、独力でクリニックを開かねばならなかった努力家のノックス医師を。それにまさしく彼女は、社会に迎合しているという人間なのだ。
大体結局のところ、彼女は師匠の志を受け継ぎ心優しい。エイデンをとても大事にしてくれる。だからエイデンも、医師には心を開いている。彼女の口にするエイデンの評は、信頼してもいい。
「無駄よ。彼は色々理屈をこね回して考えて見てはいるけれど、どう頑張っても父親を殺したことを悪いとは思えないって」
「そう言う時は、『彼は葛藤している』って書くんでしょう、報告書に」
そしてトレントも、エイデンの家族に同じ文言で報告をする。40を超えているとは思えない、皺一つない端正なノックス医師の面立ちが、倦怠から腹立ちに染まり変わる。白衣の中から伸ばされる長い首。黒檀色の滑らかな肌が、窓の向こうに見える雨雲へ乱反射する光で、普段よりも艶かしく見えた。ニューヨークは晴れていない。平叙文(という単語を、トレントはあの動画で初めて知った)の主語の後に否定語のneを入れる、それだけでいい。簡単だ。
「君は、あの子に手を出した?」
「性交同意年齢にはとっくに達してる」
「それと話は別です。エイデンは君の為に父親を殺した。本人は少なくともそう思ってる。そして自分が君のことを愛してるんだとも」
「残念ながら、それは奴にとって事実なんですよ」
扉を隔てても電波は飛んでくる。「もう一度繰り返しましょう。『Tokio estas suna』俺は曇りの方が好きですが」うんざりさせられる左耳。
「あいつに手を出したか? アナルに性器やそれに類する身体の一部、有機物や無機物を挿入したことはありません。そもそもプライベートゾーンに触れたことすら……ああ、キスはしますね。ただし子供にするようなものを。あいつは時々悪夢を見るようです」
「本人から聞いた。覚えてはいないけど怖い夢を見る、君の家にいる時は一つのベッドで寝ることもあるって」
そこまで話してるのか、幾ら何でも無防備が過ぎる。思わず眉間を揉んだのは、低気圧による不調故だと医師が捉えてくれることを祈る。不要な言葉、行かなくて良い場所。東京が晴れていようと雨だろうと知ったことか。
「君は愛してるの?」
うんざりしきったノックス医師の口ぶりと、取ってつけたような動画の中の台詞回しが、頭の中で交差し虚しさを増して通り過ぎる。
「言っても通じませんよ。奴にとって、言葉に意味があるとは思えませんから」
その通りだと言おうとして、結局トレントは、思ったよりも不貞腐れた声で答えた。見遣った空は、予報だとあと数日は荒れたままなのだそうだった。