新しい花
第108回 お題「お花見」「花びら」
ドライブの最中、エイデンはずっと不貞腐れていた。トレントは善意しか施していないにも関わらず。全ての悪は、エイデン自身に依拠するものだった。酒を飲み過ぎて左足を挫いたのも、結果として勝手に塞ぎ込んだのも、そして「歩けないならせめて車越しに眺めたい」とトレントにねだったのも。
全ては悪い方に傾いた。鎮痛剤とアルコールの併用は脳をぐらぐらと揺さぶり、精神科ではいつもに増してノックス先生を困らせる。挙げ句の果て、狭いインパラの助手席で具合が悪くなるとグチグチ抜かしっぱなし。こんなにも良い天気の日に、全く勿体無い話だった。
「前にワシントンDCへ行った時も、お前酔ってやがったっけか」
「今日は酔ってない」
本当か、と難詰する前に顔をこちらへ向けさせ、伏せられた瞼を捲り上げる。眼球が揺れている様子はない。だが顔色はやはり良くないし、薄く開かれた唇は乾いている。サイドガラスを突き抜ける、春の日差しに照らされてもなおこれだ。乾いた粘膜を潤そうと無理やり唾を飲み込むたび、何度も上下する細い喉元を眺めていれば、良からぬ気だって起こしたくなる。突き飛ばすようにして助手席へ戻し、トレントはアクセルを踏み込んだ。
バーノン通りからイースト・リバーを渡りルーズベルト島へ。橋を渡ってすぐのショッピングモールは、マンハッタン・パークと隣接していた。
屋上駐車場へ乗り込ませた車が停車しても、エイデンは無言を貫いていた。体に触れられても同じこと。腕を引かれ、何度も繰り返す接吻は間違いなく官能を込めたもので、この坊やも一生懸命応えてくれる。けれど、それだけだった。ふと顔を離した瞬間、エイデンはふっと瞳を開き、茫洋と潤んだ目を男の脇に逸らす。
どんな間抜けにだって、やりたい事くらいはある。悪の城砦を思わせる殺風景な鉄筋コンクリート造りの建物の下、公園で今を盛りに咲き誇る、桜の花。ここが絶景の鑑賞スポットだと知っている人間は多いが、案外利用しないのは、ただ花を眺めるという行為の面白さをニューヨーカーが然程理解していないからだ。綺麗に整備された公園で、ごった返す大勢の一員になり、キッチンカーでクソ高いSNS映えするフードメニューを頼んだりすることが、桜祭りの楽しみ方なのだから。
フロントガラスからは、ただ花が見えるだけ。けれど、そのたった一つなのだ、エイデンが望んでいることは。
切なる願いも、けれどほんのり紅潮した頬を撫でてやることで、呆気なく挫かれる。涸れた声で名前を囁かれ、エイデンは煉瓦色の瞳を僅かに見開いた。繰り言は必要としていない、お互いに。だからこそ無言の圧へ容易く屈し、目を閉じる。従順は心得ていることの証だった。回された手が首元を柔らかく掴んでくるのは、あくまで束縛の為だと理解している。生ぬるい舌を噛んだ時、微かに顰められた表情は間違いなく情事を想起させた。まだ己が受粉させたことのない身体。華奢な肩の震えは間違いなく処女なのに、腕の中で反り返る細い腰の仕草はどうだ。たった20年の人生で、一体何人を誘ってきたことか。
けれど桜の花は毎年散って、再び咲く。いつかの花弁を惜しみ、掴もうと躍起になって手を伸ばすなんて全く馬鹿げているではないか。この瞬間に目の前で、花開こうとしているのに。
回された両腕はやはり力ない。けれどエイデンはただただひたむきに、男へ向き合っている。
「トレ、僕いやだ」
「無理に動かさなくていい」
「ううん、そうじゃなくて……いや、足首も痛いけど」
すり寄る滑らかな頬は、思ったより温度を上げていない。弄られ過ぎて鈍い動きを作る滑舌も、聞き方によっては眠気でも催しているかのよう。捕らえた肉体が腕の中、少しずつ弛緩していく状態を、トレントは身を委ねるという行為だと断ずることが、とても出来なかった。
トレ、とあどけなく、そして怯えた声が、そっと提案する。花を見せて。ドアを開けなくても構わないから。
恩を売るため、名残惜しいというポーズだけはしながら、トレントは火照った体を解放した。
シートへ座り直し、エイデンは遠目の花を眺めていた。一際強く吹いた春風に、無数の花が崩され、ばらばらになって撒き散らされる。眼下の公園内をそぞろ歩く連中は、舞い上がった砂埃が目に入ったのか、それとも花弁そのものが疎ましかったのだろうか。都会人の神経質さで目を細めたり、顔前で手を翳したり。あいつらは何も分かっちゃいない。トレントは確信し、思わず唇を皮肉に吊り上げた。全く、連中の無知さ加減と言ったら! 恐らく、隣でちょっと気取って見せる世間知らずの坊やほどすらも、理解していないのだ。反復して積み上げていくということと、自己同一性の相関について。そもそもトレントは花になど興味がないので、ずっとエイデンを鑑賞していた。産毛も柔らかい稚げな横顔。例えサニタリーボックスの底みたいに汚れ果てても、この青年は十分にそそった。それに、経血がどうした。プッシーが付いている限り、ほとんどの女は生理になる。
今日一番やりたかったことを満喫中と言え、その間ずっと太腿を撫で回され続けていては堪らないのだろう。「もういい。帰ろう」ありがとうと言うどころか、唐突にそう切り出す。
若者らしい自意識過剰さなら、エイデンは1人並以上に持ち合わせている。トレントの視線を集めるのが嬉しかったに違いない、ましてや熱心に構われたとなれば。証拠に手の甲を抓ってくる力なんて、殆ど冗談じみて甘かった。




