推定無罪
第107回 お題「エイプリールフール」「時間」
自らとトレントの関係は嘘の積み重ねの上に成り立っているので、そもそも今更、というのが本音。それでもエイデンは、カウチの前で仁王立ちになり、決然と言い放ったものだった。
「僕、警察で本当のことを話すよ」
5秒ほどの間、トレントは寛いだまま全くの無反応を貫く。やがて口を開き、「何を」とのっぺり返した時も、その視線は弄っているスマートフォンへ落とされ続けていた。こちらへ気配りする手間暇を掛けるのも惜しんでいるのに、今取り組んでいる事へすら退屈している男に、正直少し動揺してしまう。
「父さんのこと。僕は言うほど泥酔してなかったし、明確な殺意を以て引き金を引いたんだって」
本来ならばその後、「だからこれでトレともお別れ」と決め台詞を放つつもりだった。けれど少しドギマギしているから、そうトレントの態度が怯ませるから、結局口を引き結ぶ。いっそこちらの方が良いのかもしれない。己がほんの僅かに、泣きそうな顔をしていると、エイデンはちゃんと自覚していた。しかも芝居っけは抜きと来ている。
そしてこの期に及んで、ようやく気付いた。どれだけ適当なあしらいでも、結局のところ今のトレントは、嘘偽りない姿勢で己へ向き合っていると。
だからこそ「座れ」と隣を顎でしゃくられた時も、大人しく命令に従ったのだ。逞しい腕を首に引っ掛けられて引き寄せらても、されるがまま待ち構える。この間、未だトレントはデバイスを構っていた。今日は仕事が夜からで、しかもさっき起き抜けにシャワーを浴びていたから、汗臭かったりはしない。不潔なのは己の方だった。昨晩飲んだアルコールが毛穴から揮発している妄想から、どうしても逃れられない。
「トレ、僕……」
弱々しげに訴えようと口を開けば、腕の力が強まる。それからやっと、溜息が頬を掠めるのだ。びくりと跳ねた肩の動きを密着した皮膚で味わってから、トレントは呟いた。
「大学へ通わせてもらってるのに、一事不再理の原則も知らないってのか?」
「なんて?」
「裁判ってのは、一度判決が確定しちまったら、もう二度とやり直しが効かないんだよ。法律上、お前は永遠に無罪のままだ」
その断定は、実際に裁判所で木槌の音を聞いた時よりも、遥かに大きな衝撃をエイデンに与えた。いや、あの時はどんな感情よりも安堵が優った。当時を思い返して感じるのだが、やはり人を殺した興奮が冷めやらなかったのもあり、己は犯した罪についてしっかりと理解できていなかった。6割くらいは本気で、無罪だと思っていたのだ。
二年近くも経てば、少しは賢く、そして殊勝になった。罪と誇らしさの割合は逆転している。確かに最も手っ取り早い方法ではあったが、それがいけなかったのだ。時間をかければ、父からトレントを手に入れる方法は幾らでもあったに違いない。
この堪え性のなさは、自らのどうしようもない性だと分かっている。だからこそ、裁いて貰いたいと思ってしまった。叱られれば少しは反省できると思ったから。今こうしてトレントにきつい物言いをされているように。
いても経ってもいられない。エイデンは鋼のような筋肉の下、陸で死にかける魚よろしく、もぞもぞと身をくねらせて言い募った。
「でも……でも、控訴審をしてもらえば良いんじゃない?」
「ボンクラお坊ちゃんが輪をかけてアホな金持ちの父親を殺した事件に、警察がいつまでも拘ってると思うか? 世の中にはもっと重大な事件が山ほどあるんだよ」
「殺人に時効はないんでしょう」
「へえ、それくらいは知ってるのか」
やっとのことで、トレントはこちらへ向き直ってくれた。吊り上げられた片眉の下、炯々と輝くコバルトブルーの瞳に射抜かれる。訝しさを覚えるほど、その芯に灯った光は、愉悦に燃えていた。
「だがな。何度お前が法廷へ引き摺り出されようと、俺は被告側の証人になるし、同じことを繰り返すぜ。エイデン・サリヴァンはあの時、間違いなく極度の酩酊状態へ陥り、前後不覚の有様でした。屋敷内に強盗が侵入したと誤解し、父さんを守らなきゃ、と繰り返しながら引き金を」
「僕に罪を償わせてよ!」
殆ど体当たりする勢いで組みついても、分厚い体はびくともしない。今度こそ涙が零れそうになり、エイデンはTシャツの胸元へぐっと顔を押し付けた。柔軟剤と──これは昨日、エイデンが洗濯して、棚にしまっておいたものだ──その向こうから微かに、燻したような彼の体臭。この数年で、すっかり肌へ馴染み、分かち難くなってしまった。なのに口からは次々と、棘だらけの言葉が飛び出すのだ。
「どうせ父さんのことも僕のことも、金蔓としか思ってないくせに。僕の方が扱いやすいから、手元に置いておきたいだけなんだ」
「愛してるよ、エイデン」
「嘘つき!」
「いいや、お前は可愛い奴さ。すぐ傷ついただの罰を受けたいだの、くだらねえ御託を並べて、その癖俺なしじゃ生きられないんだからな」
何もかも見透かされている。やはり最初から、彼を騙すなんて到底無理だった。まるで自然に舌が偽りを紡げる日だって幾らでもあるのに……どうして今日に限って、そしてこのテーマに限って。
まるで赤ん坊のように体へ抱きつき、身を硬直させるエイデンの額へ、トレントはいとも気安く唇を押し付ける。
「殺人に時効なんてない。死ぬまで俺の前で、無様に苦しんでろよ」
その先の沈黙は、再びスマートフォンへ意識を向けたからだろう。いや、途中で「今日の昼飯、ピザでいいな」と、嫌になるほど上機嫌な口調で一言挟まれる。手持ち無沙汰に体を撫で回してくる手のひらへ、じっとりと情欲の気配が纏わりついていることを感じ取れたから、エイデンは仕方なく「デラックスがいい」と、唸るように注文をつけた。




