絶体絶命
第106回 お題「勝負」「負けず嫌い」
登場人物が第三者と性的関係を持っていることを示唆する描写、並びに浮気を唆す描写があります、ご注意下さい。
そいつは10年位前の自らにどこか似ていた。黒髪とか青い目とか。性質は自らの方がもう少し社交的。隅の席で黙ってカップの中身を啜り、スマートフォンを弄っているその男に、女給はうんざり顔で片手のサーバーを見せつける。男は黙って、何杯目か分からないお代わりの為、目も合わさずマグを突きつけた。奴はもうあのダイナーへ2時間近く粘っているが、皿の中の軽食は最初の10分で食い終わっていたに違いない。
「あれが格好いいと思ってるんだから、ほんとダサい奴」
そう低く短く吐き捨てて見せる癖、愛してるのだと言う。例え昨晩、左目が半分しか開かなくなるほど思い切り殴られたとしても。
ここのところ以前よりも傷んで見える金髪を振り立て、青年はカウンター席のエイデンに、拵えたブランデー・ジンジャーのグラスを押し出した。先程からずっと、このクソガキが無言でニコニコしているのを、全く素知らぬふりで。一応良心の呵責的なものがあるのかも知れない。傍らで欠伸しているトレントのペニスを先程トイレでしゃぶって来た事に対する。
浮気を詰られた腹いせに、翌日また同じ男と関係を持つこのブロンドも、確かに馬鹿の極みだ。けれどここまで露骨に、誰かの苦難を喜べるこのお坊ちゃんも、全く以って頭がおかしい──面白がるとか楽しむとか言う範疇を超えて、エイデンは喜んでいた。間男が痛めつけられているのを見るのが、嬉しいのだ。多少酔っている事を差し引いても、全く様子がおかしく見える。
彼が常識というものを理解できないのは仕方ない。少なくとも他人の意識へ引っかからない程度には世間を欺けるようにしろと、トレントが常々言い聞かせている事だった。
頭を叩いてやれば、ようやくハッとしたようにこちらを振り返る。
「さっさとそれ飲んで行って来い」
従順に三口程で半分ほどグラスの中身を飲み下すと、エイデンは「すぐ帰ってくるからこのまま置いといて下さい」とバーテンダーに言ってのけ、あたふたと外へ出ていく。
「思いっきり振られる前提だね」
「本人はな」
なあ、酷い男だろ。確かに自業自得だが……だからこそ追撃のチャンスじゃないか。お前だってあいつに腹を立ててるんだから。それに前、やってやるって大見得切ってたのはどこのどいつだよ。バーテンダーがモップ片手にわざと席を外した隙を狙い、そう囁いたのはトレントだった。
甘言に耳を傾けながら、エイデンは2杯目のグラスを傾け「いいよ」と、いとも容易く頷く。普段よりもぼんやりした顔なのはアルコールのせいだけではなく事態を深く考えていないからだろう。それに、相手の容姿が好みだったからかも知れない。何せよエイデンが大好きなトレント・バークに、あいつは似ている。
ルールは簡単。陰気でハンサムな整備士の彼氏に全てを打ち明けて「あの人達がしてるなら僕らもやっちゃおうよ」と誘いをかける。
その結果に金を賭けているのだと、エイデンは聞かされていない。自らの彼氏が誘惑を跳ね除けたら金髪坊やの50ドルの勝ち(なんて健気なのだろう!)逆ならトレントが50ドル頂きだ。
何もしなくたって将来の成功を約束されている青年が、たった50ドルの端金で貞操を云々されているなんて、正直愉快な話だった。本人がその事へ気付いていないなら尚のこと。
それは金髪坊やも同じだったようで、「あの子、本当にお坊ちゃん……と言うか、馬鹿息子って感じだよね」と頬杖の上から呟く。
「言ってやるな。仕方ないさ、ちゃんと教育してくれる人間がいなかったんだから」
「だからあんたが躾けてやってるって訳?」
素直に頷いておけば良かったのに、トレントも奴と同じく、煤けた窓の向こうへ視線を向けている──なんて気安いものではない、気付けば食い入るような勢いになっていた。思わず舌打ちを漏らしてしまう。
整備工は自らの正面へ腰を下ろした青年へ、最初胡散臭げな一瞥を投げかけた。そこから更に激昂や、或いは手や足や先程継がれたばかりのコーヒーなど、違うものが飛んでくるのかと思っていたが、濃い隈の浮いだ目は(この店の暗がりでも分かる程、彼はいつも不景気なツラをしているから、どうせ今日も変わらないのだろう)じっとエイデンに据えられている。微動だにしない鼻から上と違い、下は案外滑らかに動いていた、意外なことに。
一体全体、エイデンはどんな策を弄したのだろう。笑ったり、囀ったり、まるでリラックスしているだけのように見えるが。
今更ながらトレントは、あの2人が既にこれまで接触を持っていた可能性について思い至った。同じシフトで店に入っている2人の浮気男達に、その間寝取られ男どもが何をしているか分かったものではない。そうでなくても、己はエイデンの行動を逐一把握している訳ではなかった。
全く同じ発想に至ったらしい、青褪めた顔のバーテンダーへ見せつけるかの如く、整備工はスマートフォンをパーカーのポケットへ落とし込んだ返す手で、テーブルへ乗っていたエイデンの手のひらを掴んだ。
そのまま立ち上がり、外へ出て来た2人が男のいかしたシボレーへ乗り込む直前、早足は辛うじて間に合う。エイデンの肩を掴むと、トレントは出来るだけ気安い態度で「待たせたな」と笑いかけた。
「彼とは初対面だよ。それに、車の中でちゃんと種明かしするつもりだったのに」とぼやくエイデンの頬はびんたで腫れているから、滑舌は少し悪い。その車とは、あのシボレーか、このインパラか、一体どちらの話だろう。引っぱたかれ、トレントのシフトが終わるまで、カウンターに突っ伏してぐずぐず泣いていたこの青年に声を掛ける奴は誰1人いなかった。触らぬ神に祟りなし。神とは無論トレントのこと。凄い顔してるぞ、と揶揄する常連も、睨みつける目付きで最終的には口を噤む程に。
「自業自得だ」
「そのまま返すよ。自分だって浮気してくる癖に……」
そんな訳ないだろって何度言やあ分かるんだ。いつもなら滔々と説いて聞かせる言葉を、今回ばかりはトレントも唸り声と共に口の中で噛み潰した。




