側に居てあげる
第101回 お題「風邪」「熱っぽい」
別に彼のことを馬鹿だと思っていた訳ではないが、体調不良とは無縁の男だと思っていた。
「うつるぞ」
疎ましげに呟くトレントの声は、普段にも増して掠れ、どこか色っぽい。僕って最悪、と内心呟きながら、エイデンはベッドへ滑り込んだ。
「熱がある」
手を当てたら、額の熱さと深められた眉間の皺をありありと感じ取ることが出来る。もはやトレントは、首を振って跳ね除ける事すら面倒なようだった。怠そうな身のこなしで仰向けになり、態とらしく咳をする。
「コロナじゃないよね」
今更になってエイデンは怖気を震った。最後の予防注射を打って何ヶ月、いや何年経っているだろう。今のところまだウイルスの魔の手からは逃れられているが、罹患したニーヴ曰く「全てが最悪」の状況になるそうだ──自らの意思で両脚を太腿のところから切断した彼女がそう言うのだから、余程の事態なのだろう。
「匂いはする……お前、髪の毛切ってきたのか」
「うん」
「道理で甘ったるい……あのシャンプー使うのやめろよ。女みたいだぞ」
「そうかなあ。いい匂いだから僕は好きだけど」
そんな事よりも、とエイデンはマットレスのスプリングを軋ませることなどお構いなしに、伸びている男へ擦り寄った。
「チキンスープ作る? 服を着替える? 何でも言って」
「居間で大人しく遊んでろ、1人で静かに寝かせてくれ、それが一番有難い」
「どうして」
「どうしてって、お前、自分が熱出した時にどうされたいか、想像してみろよ……無理な話か」
素直に命じられるまま少し考えを巡らし、エイデンがした事は、毛布の中へ頑なにしまわれていた男の無骨な両手を取る事だった。酷く冷たい。肩や腕、触れ合いそうな位置にある他の部位は、まるで熱を放射しているかのようなのに。
「誰かに手を握っていて貰いたいかな」
もうちょっと思考を整理してから、次の言葉を放つ時には、何故だろう、ほんのり胸が締め付けられたような気分になる。
「こんな時に、1人でいるのは嫌だから。母さんならこうしてくれたよ」
エイデン・サリヴァンはトレント・バークでは無いので、彼の願望など分からない。
だから、小さい頃を思い出した。毛布へ包まれているかの如く温かく守られ、誰も己の性質についてとやかく言わなかった時代。幼少期のエイデンは何かと体調を崩しがちで、寝付くたびに母が子供部屋で付きっきりの看病をしていた(傅かせるのが好きだった割に、母は根幹的なところで女中達を信用していなかったと、今になって思う)
大丈夫よ、可愛い坊や。ぐっすり眠ったら、きっとよくなるわ。ひんやりした手で頭を撫でながら優しく囁かれる瞬間だけは、高熱が作る全身の痛みも倦怠感も、まるで溶けるように消えていった。だから母が少しでも席を立つ素振りを見せたら、泣き出しそうな声で「いかないで」と手を握りしめた。息子が訴えれば訴えるだけ、母は与えてくれた──眠りにつくまで。
あの時自らが覚えた感情を、トレントにも感じて欲しい。エイデンの願いはそれだけだったのに。ずぼっと太腿の間へ突っ込まれた爪先に、思わず悲鳴を上げる。
「冷たい!」
「風邪引いてるんだから仕方ないだろ」
それもそうなのかな、と納得することも出来ない程、トレントの足は氷の如く冷えきっていた。もぞもぞと内腿を擦り合わせれば「その調子で頼むぜ」と、涸れた含み笑いが耳元へ吹き込まれる。
トレントはエイデンの脚が好きなのだと言う。正確には下半身。露骨な意味合いではなく、尻や太腿の肉付きが良いのがそそるのだと、以前本人を前にして臆面も無く言ってのけた。エイデン自身はトレントの尻など、そんな判定基準を抱えてまじまじと眺めたことがないので、何とも言えない。「そそる」と言うならば、彼の存在そのものが、腹の奥にあるペニスを勃起させる筋肉へピリピリと微弱な電気を通されているような気分にさせられる。
「トレがいいなら構わないけど……」
「しおらしいな」
「病人には優しくしないとね」
そういえば、この男は子供の時、具合を悪くしたら一体どんな扱いを受けてきたのだろう。言葉の節々から読み取る限り、虐待など受けてきたのではない、ごく一般的な家庭の育ちだと窺える。なのに何故、こんな性格になってしまったのか……
つらつらと考えているうちに微睡んでしまったらしい。「看病してくれるんじゃなかったのかよ」呆れたような声に、落ちていた瞼を開く。
「ごめん、温かいベッドの中だと眠くなっちゃうよ」
「赤ん坊だな」
失礼な事を言われたから、そうでない証拠を見せる為、エイデンは握りしめたままだったトレントの手を眼前に掲げた。両手で包み込む──のは、自らの手の大きさだと難しいので、精一杯、特に冷たい指先を手のひらで擦ってやり、時に息を吹きかける。
「これもお袋さん直伝か?」
「ううん。多分、あなたが教えてくれたんじゃない」
寒くて震えた時、悲しくて泣いた時、とにかく自分ではどうしようもない肉体反応に振り回されている時、助けてくれるのは他でもない、目の前の男だ。これまでがそうだったのだから、これからもそうであって欲しいと心から思う。
温もりが戻ってきたのを肌で確認すると、エイデンはそのまま彼の腕ごと、手指を胸に抱え込んだ。
「おい」
「もう冷たくしないよ」
そう言って益々抱き込む力を強めれば、こんな姿勢不便極まりないだろうに。もう完全に面倒臭くなったらしいトレントは、そのまま何もせず、言葉にすらしないで、溜息一つの後に目を閉じた。




