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首吊り自殺者のバラッド

第99回 お題「スーツ」「オフィス」

登場人物が第三者と性的関係を持っている事を示唆する描写があります。ご注意下さい。

 別に嫌いではなかったが好きとも言えなかった、未だに評価を定めあぐねている父だが、一つだけされて嬉しいことがあった。夜に子供部屋で1人遊んでいる時、開け放たれたドアの向こうで足音が立ち止まり、帰宅したばかりで少し疲れた声が、柔らかく「エイデン」と名前を呼ばわれること。兎角集中力が欠けがちなエイデンだが、何故かそう言われるときはいつだって玩具へ夢中になっている場合が多かった。そんな時に差し込まれる己の名は、いつでも新鮮な驚きを与えてくれたものだった。

 それが彼への積極的な好意ではなく、単に自らの存在を認識されると言う行為がとても嬉しかっただけでも構わない。無視をされたら、人間が持つ段階的な愛情の、スタート地点にすら立てないではないか。

「エイデン」

 自らが後に働く事になる会社を自発的に訪れる事は滅多にない。よっぽど緊急的な無心の時くらい。一応社員の前では仕事をしているふりをしたがるレオンだ、プライベートな事で義弟と諍っている姿を見せるの好まず、話を有利に進められる可能性が高い──己が滅多に乗らないBMWをトレントに貸したら、事故を起こされた。運転手も同乗者も怪我は無かったし、何よりも過失は0:10、高級レストランの駐車場に車を停めていたら相手が勝手に突っ込んできたと言うものだったので保険も満額下りる。

 けれど、事の経緯を知ったレオンは、エイデンから車を取り上げると言って聞かなかった。元々乗って無かっただろう。あるのと無いのじゃ気分的に全然違うよ。お前なあ、このご時世、ニューヨークのど真ん中に住んでる大学生にとって、車は高級嗜好品なのは理解してるのか? それにな、エイデン。

「虚しくないのか?」

 あいつが誰と乗ってたのか知ってるんだろう?

 並行線を辿る一方の話し合いを決裂させ、席を立ったエイデンの後ろ姿に、レオンは情け容赦ない追撃を加える。窓へ掛かったブラインド越しに、ちらちらこちらを窺う秘書の女の子へ一瞥を与えた後、エイデンはくるりと踵を返した。父がふんぞり返っていた頃から大幅に模様替えされた、北欧風の柔らかくて温かみのある部屋の内装は、言っては何だが只でも無いレオンの社長としての風格を一層損なう。

 無垢材の応接テーブルへ置きっぱなしにされた紙コップ入りのコーヒーをぐいと飲み、デスクの向こうの義兄をじっと見つめる。睨んでいるつもりはなかったが、自然とそんな目つきになってしまっている。ブリオーニのずどんとした(これは元フットボール部の体格も影響しているのかも知れないが)野暮ったく見えるスーツはおろしたてだろう。組んだ両手をデスクに乗せ、じっと話を待ち構える姿が、妙に板についているのが何だか腹立たしい。

「誰でも良いんだよ。トレだって友達と遊びたいって思う事はあるだろうし」

「友達ってな……」

「セックスする友達」

 もしも父が生きていたら、と言うか己が殺さなかったら、彼とこう言う会話をしたのだろうか──破綻している。今頃よその男のあれや女のそれを追いかけていたのは父の方で、トレントは「コレクションNo.3」位に収まっていただろう。またはうんざりしたトレントが出奔し、或いは父自身が手放し……

「この際だから言うが、あいつの女癖……ああ、男もか? 酷いもんだぞ」

「トレに探偵でも付けたの」

「付けてたとしても俺じゃない。お前が蔑ろにされてる様子は、正直見てられないよ」

「それはサリヴァン家の体面とかそう言う話?」

「エイデン!」

 これはエイデンが庭で突然爆竹を鳴らした時、バスローブ姿で寝室のバルコニーから叫んだ時の父の声。今までそんな事考えた試しはなかったが、レオンは時たま、なぞったかの如く父と同じ抑揚で声を放つ事がある。

 それともこれは、かつて父が仕事をしていた部屋で、父がしていた仕事をし、父のように差し出がましい口をきく義兄と向き合っているからそう感じるのかも知れない。

 己はもしかして、怯えているのだろうか。

 それも悪くは無い。どんな形であれ、相手に対する敬意がなければ、湧いてこない感情だから。

 でも、これを向けるのはレオンに対してではない。少なくとも父は、もう少し派手好きだったとは言え、自分の身体に合ったスーツを着こなしていた。

「義兄さんが思うよりも、車にはよく乗ってるよ。今週末も大学の友達と一緒に出かけるんだ」

「今週末だって?」

「うん。メリーランドへ、プロ・チョイス推進運動のデモに行く。みんな車を持ってない子達ばかりで……約束しちゃったんだ。約束は守らなくちゃ」

 忸怩たる話だが、トレントが絡まない友達の話になると、レオンは大概甘くなる。今も眉間の皺を左手の指で揉みながら「自分の境遇に感謝しろよ」と唸る。既にその反対の手には、スマートフォンが握られていた。

 その後会議でもあるのか、レオンが憮然とした面持ちで部屋を出て行き、待たされること20分。背後で小さく扉の軋む音が、静寂に満ちた空間へ差し込まれる。

「エイデン」

 本人が意識しているのかどうかは分からない。けれどふとした瞬間、トレントは不意に、途轍もなく屈託ない声を出す時がある。

「何やってんだ、こんなところで」

「トレこそどうしたの」

「お前を迎えに来いってレオンから電話があった。それと話がしたいとさ」

「お叱りを覚悟した方がいいよ。この前のイタリアンバルの駐車場の話だから」

 舌打ちにようやくスマートフォンから顔を上げ、振り返る。何だかんだと薄々良くない事態を察知してはいたのだろう。トレントはダークグレーの吊るしらしいスーツを身につけているだけではなく、赤紫色のネクタイまで締めていた。エイデンの記憶が正しければ、関係が始まってごく初期の頃、父が彼に買い与えてやったポール・スミスの品だ。

 己が不快に思うよりも、レオンがもっと嫌な気持ちになる事の方が重要だと。椅子を蹴るようにして立ち上がると、エイデンは男の腕の中へ飛び込んだ。キスをねだる時は、コーディネートの中で一つだけ明らかに浮いているネクタイへ指を這わせるのを、勿論忘れることなく。

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