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ボス・サノバビッチ

第36回 お題「上司」「先輩」

 要するに人生の先達でナビゲーターのようなものだ。トレントは己の経験から学んだ知見を、エイデンに惜しみなく授けてくれる。こう言う時は笑えば良いとか、ここは抵抗していいタイミングだとか。或いはただ、大人しく口を噤んで頷いているべきだとか。本人が教えるつもりなど無くても、身を以て体現してくれる。彼はよく言った。見ていろ、それから繰り返せ。

 長い通話を終え「あ゛ーくそっ」と品のない感嘆詞を吐き捨て天を仰ぐトレントを、ずっと眺めていた。そこまでは出来た。だから今から軽口を叩いても許されるだろう。「義兄さんも細かいね。誰へ先に報告が行ったって問題無いだろうに」

 3日前、トレントはエイデンの伯父の所へ呼び出された(サリヴァン家を統率するあの人は、トレントの電話番号を知らない)話すよう命じられて、彼は率直に答えたのだろう。カウンセラーとの面談の最新速報か、日常のちょっとした変化か、とにかくエイデンについての何らか。その中に、義兄の知らないネタがあった。

 で、伯父は義兄にちくりと言ったのだろう。そうでなくても義兄は伯父を嫌っているし、そんな事は彼らの間でお互い様なのだと理解しないのが不思議なのだが、とにかく一旦最上まで行ってから降りてくるのは気に食わないと言う訳だ。

 休みの日にトレントの家でダラダラしていたら、そんなに暇なら芝刈り機でも転がしてこいと命じられ、30分も頑張っただろうか? 庭仕事はスティーブン・アレンのステンカラー・コートを着て。ガレージの片隅で埃を被っていた手動の機械を押しながら庭を行ったり来たり、伸びきった芝生に面した窓は薄汚れていたが、中でエイデンよりも遥かに忙しなく、トレントがうろうろしていたのは見えていた。防戦一辺倒であることは一目瞭然だった。珍しい。特にエイデンへ対しては、いつも傲慢な程の自信を纏って采配に当たるから、余計にそう思う。

 スマートフォンをジーンズの尻ポケットに押し込み、トレントはまた溜息をついた。今度は苛立たしさも露わに、まるで物を教える相手が、とてつもなく飲み込みの悪い時に吐いてみせるようなやり方で。

「良いことを教えてやる。情報は誰に伝えるかが最も重要なんだ。同僚か、直属の上司か、その上か」

「僕らの場合は伯父さんが一番上だね」

「とにかく、かなりの確率で優先される存在がある。金を出してる人間だ。大抵の場合、情や忠誠心よりも、こちらを取った方が上手く立ち回れる場合が多い」

 狭いキッチンはダイニングも兼ねていると言う呈だが、家族で囲めるようなテーブルを入れてしまえば、ろくに身動きも取れなくなるだろう。部屋は多いのに、変な作りの家だった。だから一族は、シッター代から家賃を控除せず、トレントへ貸してやっている。

 おかしな部屋は明かりまで歪だった。エイデンはシンクの縁に尻を乗せ、トレントを見下ろした。目の前の、かなり荒々しい端正さを構成する、あらゆる顔の起伏が、くっきり浮かび上がったり影を作ったり。この前美術書で見たジョルジュ・ブラックの絵のようだ。それにしても、己は一体何の機会があって、キュビズムの画集なんか開いていたのだろう。

「でも」

 首を傾げ、エイデンは思わずうっそり眉根を寄せた。

「トレにお金出してるのって、義兄さんじゃ無かった?」

 しっかりしたウール越しだから染みてはこない、身体には。だが外套には、シンクに飛んだ水滴が間違いなく吸い取られただろう。居心地が悪くて思わず身を捩れば、腰を強く掴まれた。無骨な両手は逃げるなと言わんばかり、すっぽりと囲うような勢いで束縛する。

「お前の兄貴が?」

 顔を近付け、微かに顎を持ち上げ囁くトレントの息からは煙草の匂いがした。電話の途中で吸うのを止めたのだ。それだけ、本気でしおらしくしていたと言う事だろう。父にも、同じような真摯さを見せたのだろうか。そして何より、自らにも。

 考えるだけで凄く嫌になる。そうトレント本人へ、直截的に訴えた事はない。もしも口走れば、彼はきっとまた色々と講釈を垂れる。それもまた忌避を催す想像だった。

 鬱々と考え込むエイデンを、トレントは笑い飛ばす。

「そのお前の兄貴に金を出してるのがミスター・サリヴァンだろう」

 彼はこれまで、かなりしくじって来たのだと思う。そして学んだのだろう。

 そんな男でも失敗することがあるのだ。自らなんかこれから、どれだけのやらかしを。

 それは嫌だ。また「嫌だ」で、もううんざりしてしまう。

 「病状」を逐一報告されるのも、腫れ物扱いする癖に我先へと介入してこようとするのも、いい加減にして欲しかった。指針が色々あると疲れてしょうがない。

「いっそのこと、カウンセリングに通うのも止めようかな」

「自分から入院治療に切り替えようとするたあ、良い度胸だな」

「今日もどうせ、ノックス先生がああ言った、こう言ったってことが議題だったんでしょう。いっそ、トレが僕のボスになって欲しいよ」

 「ボス」と言う言葉に、トレントが大きく反応したのは分かる。理由は知らない。教えてよ、と強請る代わりに、エイデンは相手の目元に口付けた。青色の濃い瞳が好きだった。彼に逐一観察されるのは悪くない。その後きっと、コントロールしようと目論んでくるからだ。

 それにまあ、彼と一緒ならば失敗してもそんなに怖くない気はする。

 敬意を示した唇で、触れた目尻が甘く下がったのを知る。セーター越しに親指で臍を擽られ、エイデンは喉の奥の息だけに及ばず、肩や腹筋を震わせた。いつの間にかトレントも、エイデンの細い首筋に額を押し当て笑っている。こうすれば良いんだよ、と彼に教えたのが自らだと言うことが誇らしかった。

「俺がボスになったら厳しいぞ」

「そうなの?」

 高い鼻梁でタートルネックの襟元を掻き分けられるままにされ、エイデンは微かに声を上擦らせた。

「怖いお巡りさんになる?」

「お巡りさんはもう止めた。制服を着てた時じゃ出来なかった方法で躾ける、徹底的にな」

 無防備な頸動脈に歯を立てられ、思わずひゅっと細く息を吸い込む。恐らく彼の望む反応を返した筈だ。けれどトレントは、上機嫌を纏わせる芯を、鋼鉄のような固い無機質さから変質させる事は決してしなかった。

「俺の望むようにならないなら死ね」

 彼はきっと実行するだろう。トレントのそう言うところを、エイデンは尊敬している。だからもう少しの間、結構本気の痛みを覚える方法でじゃれつかれても、されるがままになっていた。

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