Reptilia
第92回 お題「イヤホン」「掠れ声」
身体完全同一性障害と、それに関連付けられた性行為についての話題が登場しますので、ご注意下さい
泣いている内に眠ってしまったらしい。カウチで丸くなるエイデンの身体は、もうしゃくり上げの痙攣を止めていた。長い上下の睫毛を接着するよう濡らす涙も、赤らんだ頬も、もはや静謐な顔を彩るアクセントの役割しか果たさない。
「両脚の無い人とのファックってああするんだね。凄く怖かったよ」
トレントが学生マンションの近くにある酒場まで迎えに行った時、エイデンは怯えていた。少し早く着いたのが裏目に出たのかも知れない、後2、3杯飲ませれば緊張も取れるかと思って、ブランデー・ジンジャーをお代わりする間待っていてやったのだが、事態は悪化するばかり。家へ着いた頃にはぐでんぐでんに完成し、既に啜り泣いていた。
「あんな好き放題に体をひっくり返したり、持ち上げたりして、体位を変えたり……短い太ももがバタバタもがいてるのもお構いなしに、ワギナへ突っ込んで揺さぶったり……ダグは、もう、本当に滅茶苦茶するんだ……ルーも、切断面を見せたいってわざとそう言う構図に、脚を天井へ向けて高く上げさせたりして……途中からニーヴも、手加減してって、ちょっと怒ってた……本気じゃないとは思うけど……」
つっかえつっかえ、その癖まるで壊れた機械のように訴えは連綿と引き伸ばされる。いい加減うんざりしても許されるだろう。冷蔵庫へ帰りがけに買ってきたビールを放り込みながら、トレントは「ヤる時は義足付けないのか」と肩を竦めた。
「まあ、ぶつかったら痛そうだもんな」
そこから続く短いやり取りでもう、エイデンは取り返しのつかない程臍を曲げた。大音量で音楽を聴き、これ見よがしにカウチを占領すること30分。目算よりも早く静かになる。少し多めに飲ませておいて良かった。トレントは己の判断を誇り、ナイーブなふりをしているクソガキの枕元へ腰を下ろした。
床へ転がり落ちていたワイヤレス・イヤホンを踏まずに済んだのは、まだそこからしゃかしゃかと音が鳴り響いていたからだ。拾い上げ、右耳に差し込む。ストロークスか、恐らくこいつが生まれた頃に流行っていた、ガレージロックっぽい曲。呻くような声が叫ぶ。「俺が猛烈な勢いで捲し立てても『ゆっくり』なんて言うな。お前がいるのはこの街の謎めいた場所」
子守唄には不適切な気がする、と言うか、よくこんな喧しいギターサウンドを爆音で聞いて眠っていられるものだ。
どうやら一曲をエンドレス再生しているらしい。耳からデバイスを外し、コーヒーテーブルに投げ出した固い音で、まさか覚醒したのだろうか。見下ろす顔の中、ぱちりと目が開く。
「ちょっとは場所空けろよ。隣に座って欲しいんだったら」
「ねえ、トレ。僕って冷血漢じゃないよね」
寝起きと啜り泣きの相乗効果で、エイデンの声はすっかりしゃがれていた。
「酷いことをされている人を見て、不快な思いをするって事は、まともな人間らしい反応じゃない?」
「そりゃそうだろうが、そんなメソメソする必要ないだろ」
涙でふやけた、殊更柔らかい眦の皮膚を親指で擦ってやりながら、トレントは言った。
「大体、酷いと思ったなら、何で止めなかった。てか、ずっと見てたのか。悪趣味な奴め」
「だってあれが芸術なんだってルーは言ってたし。好きでやってるなら、僕が口出しする事じゃないよ」
そう言うところがだな、と懇々と言い聞かせたところで、こいつは益々不機嫌になるだけだろう。長口上のせいか、咽始めすらしたので、持ってきたクアーズを渡してやる。エイデンはプルタプを引かず、額に冷たい缶を当て、テーブルの上のスマートフォンを手探りした。
「救いなのは、ニーヴも元気な事だよ。寧ろ自分の思う通りに体を作り変える事が出来て、凄く安らかそう」
「お前、マジでそんな変な連中と付き合うなよ。おかしな奴らと同じ空間にずっといたら、ただでもイカれてるお前の頭がそこへ馴染んで、余計にこんがらがるぜ」
「焼きもち妬いてるの?」
「ふざけた事抜かすなら引っぱたくぞ」
少し困ったような顔をしているところを鑑みるに、エイデンは本気で言ったのだろう。「イヤホン」と言われたので手に取るものの、結局トレントはそのまま再び、自分の耳に押し込んだ。先程スマートフォンを操作して、少し音量を下げたらしい。けれど結局、同じ曲の繰り返し。これは脳にある特性を持つ人間がよくやる行動らしい──少なくとも精神病質者ではなかったのは間違いなかったが。
「なに?」
「お前がこんな曲聞くの、珍しいと思って」
「ストリーミングのランダム再生で流れてきて、良いなって思ったから。古い曲だよね、70年代くらい?」
「そんな訳ないだろ、21世紀だよ」
「嘘」
と頭を持ち上げて訝しげに目を見開いた癖、本当かどうか調べる手間は掛けない。エイデンが開くのはグーグルではなく缶ビール。二口三口と飲み下され、ようやく声に滑らかさが戻ってくる。ひそひそ話だって、声を裏返らさずにできると言うものだ。
「あのね。撮影だけど……たまたま部屋に踏み込んじゃっただけなんだよ。そんなに長い事見てなくて、すぐに出て行ったし。ただ、ニーヴが心配だったんだ」
どうだかね、と言う代わりに、トレントはまた肩を竦めた。口を開けば、今聞いているボーカルの声が鼓膜を通り抜け、そのまま飛び出してきそうな気がする。「言ったよな? この世界はお前の為にあるんじゃないって」
こいつは、この世の全てを把握する事が不可能だといつになったら気付くのだろう。それが途轍もなく傲慢であることにも。
馬鹿で独りよがりしかなれない、優しくなりたいなんて実現不可能な夢を抱いているお坊ちゃんの唇に唇を重ねる前、「今度は僕の番」と言われた気がした。或いはこの声は、イヤホンから聞こえてきただけなのかも。出来たら後者がいいと、トレントは思った。




