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不定形の極限

第89回 お題「抱擁」「ぬくもり」

登場人物が第三者と性的関係を持っている描写があります、ご注意下さい

 普段から昼夜問わず爆竹遊びをしていたおかげもあるだろう。父に向かって発砲してもハウスキーパー達は誰も気付かず、トレントが通報するまでに45分のタイムラグが発生した。

 その間、エイデンは逃げも隠れもせず、血まみれのベッドに腰を下ろしていた。時折骸に触れる事すらした。血も肉も、とにかく冷めるのが早いのだと知ったのはその時の事だ。先程まで他人に抱かれ、ホットになっていた体はあっという間にぬるま湯じみた温度になる。その状態が案外長く続く。それは暗示のように思えた。これからの人生ずっと、纏わりついてやると。生きている限り、お前はこの状態が続くのだと。

 エイデンが掛けていたブランケットを捲ってもトレントは怒らなかった。それどころか、まるでスプーンのように仰向けの体へ体を重ね、カウチヘ横たわるような姿勢を取った時は、胸元で蠢く頭を軽く撫ですらする。

「怖い夢を見たよ。警察の取り調べ室で待たされてたら、伯父さんが入ってきて、テーブルに書類を叩きつけるんだ。『これにサインしろ。お前が人間として生きる権利について全て放棄する旨の同意書だ』って」

「それからイカゲームにでも参加させられるか?」

 熱を籠らせた空気ごと包み込むよう、布を引き上げてやりながら、トレントはさして面白さを感じてもいない口調で返した。

「前にも言ったっけな。お前の頭の中って、恐ろしく陳腐なんだよ」

 その事には全く同意するが、どうしようもないではないか。それに幾ら凡人でも、これだけ寒いと酷く物悲しいような寂しいような、とにかく落ち込んでしまう。猫のように身を丸めてずっと眠っていたかった。ああでも、課題についての参考文献について、友人にテキストを返さねばならない。

 テーブルに乗せたスマートフォンを取るためにブランケットから手を伸ばしただけでも、ぶるりと寒気が手首から這い込み、背筋を通って首筋へ走る。

「寒い、エアコンじゃなくてストーブ付けてよ」

「そこまで寒くないだろ」

 先程から眺め続けるスマートフォンで閲覧する内容は、余程面白い事なのだろうか。トレントは頑として、その場から動こうとしない。

「寝起きだから寒いのさ。ベッド戻れよ。それとも」

「それとも?」

「ここでも構やしない。とっとと二度寝しちまえ」

 トレントがそう言い終わる前に、彼の身につけたパーカーをぎゅっと掴む。チャックが噛み合わされる境界線の辺りに鼻を押し付けたのは、慣れない匂いを嗅ぎ当てたからだ。

「トレ、最近香水変えた?」

「いいや」

「じゃ、これ、お客さんか……」

 あれこれ考えを巡らす暇は与えられない。等閑で、けれど力強い腕が背中へ回される。一瞬身をもがかせたエイデンを見下ろし、トレントは笑った。普段からあれだけ、母親のエプロンの裾を掴む子供じみた勢いで引っ付いている癖、いざ束縛されれば反射的に逃げようとするなんて。エイデン自身、思わず赤面してしまった。

「黒髪」

 唐突な呟きに目線を持ち上げれば、既にコバルトブルーの瞳はじっとこちらを見つめていた。

「20代半ば。黒人。シングルマザーだ。基本的に月水金土に出勤する。

 これだけ色濃い残り香と言うことは、昨日、金曜日に付けられたのだろうか──いや、一番肝心なことが抜けている。

「彼女に何をしたの?」

「ファック」

 それが罵り言葉ではなく、本来の意味である事が理解出来ない程子供でもないし、間抜けでもない。

 距離が近付けば近付く程、お互いの色々な物を察することが出来るようになる。知りたくなかった、なんて泣き言を口にするつもりはないし、全てが欲しいなんて言うつもりはないが。

 トレント・バークはハンサムだから、彼と熱を分け合った人間は大勢いる。そいつらを片っ端から射殺したら、大変な事になってしまう、きっとニューヨーク州に死刑制度が復活する。

 せめてもの慰めになるのは、トレントが酷く醒めやすい性質である事だった。自らと同じく。ルーティンに落とし込む事は可能だが、基本的にはまず目先の刺激を得る事を好む。そして1秒1秒、次の事を考えていたら……昨日の話なんか、随分前の事のように思える。

 昨晩教授に譲り渡した身体は気怠く、論理的な思考を組み立てるのが億劫になってきた。目を閉じたエイデンが身を擦り寄せると、今度は罵倒語のファックが頭上から降ってくる。

「お前、何でそんな体温低いんだよ。死んでるみたいじゃないか」

「そうかも」

 全てを欲しいなんて贅沢は言わないが、全てを明け渡したいと思う事はある。でも結局、こうやって寄り添っていれば、己の方へ彼の熱が一方的に流れ込んでくるばかりだ。

「トレは体温が高いね。元警官だからかな……」

「別にそこ、因果関係無いだろ」

「筋肉質な人は温度差を感じやすいんだっけ……」

 そう言えばトレントは体温が高いのに、案外寒がりだ。だから己はここから蹴り出されないで済んでいるのかも。

 案の定、自分自身、肌寒さを覚えたのだろう。ブランケットはエイデンの頭まですっぽり覆う程引き上げられる。中に篭る知らない香水、でもそれ以外は彼の匂い、彼の鼓動、彼の体温。

 そのままとろとろと眠りに落ちた底で、エイデンは夢を見た。死んだ己と共に、トレントが踊っている夢。幾ら繋いだ手を引かれても、腰を抱き寄せられてもチークにはならない。だらりと仰け反った目はまだ半分開いていて、こめかみに開いた弾痕からの血が流れ込んでいる。

 投げ出された足が何度つんのめっても、トレントは無音の中エイデンを引きずり続けていた。が、やがて徐に、腰から拳銃が引き抜かれる。

 そこで晩飯だと叩き起こされたので、結末は分からない。けれどエイデンは確信を持って答える事が出来た。あの時きっと、トレントはもう一度、エイデンを撃とうとしたのだと。夢の中へいる限り、エイデンの身体が冷たさを増すたび、何度でも、何度でも引き金を引くに違いない。

 身体の熱を保ち続けるにはそうするしか無いと、エイデンと同じで、彼も分かりきっているのだ。

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