畜生の肋骨付近
第87回 お題「影」「帰りたくない」
「今日は泊まろうかな」
そうエイデンがぽつりと呟けば、レオンはさも嬉しそうな顔で「そうしろそうしろ」と女中を呼び付ける。
「晩飯は何が食いたい?」
「ブリスケット」
「食欲もあるのか、いい傾向だ」
もっと食って太らなきゃ駄目だ、お前そんな痩せっぽちで、と腐す兄に苦笑いしながら、盤上のポーンを進める。ゲームは先程始めたばかりだが、食事が出来上がるまでには勝敗の決着もつく事だろう。
父が死ぬ前どころか、エイデンが物心ついた頃には雇われていたハウスメイドはウエスト・ツーソンの出身だった。なので彼らの味覚は東部風と言うより、どちらかといえばあちらの乾いた土地らしい嗜好に形成されている。
キッチンは彼女の独断場だった。サリヴァン家の人間は料理をしない。妻にも強要しなかった。父自身、料理に文化的な拘りが無かったので、適切に料理されているか、嫌いな食材を使われていない限り文句を言うことは無かったように記憶している。今この屋敷の主人となっているレオンは、もう少しうるさいかも知れない。彼は昔から、案外偏食家だったから。
そんな中、ブリスケットと聞けばこの家の誰もが涎を垂らす。客人が来た時もよく振る舞われ、皆が舌鼓を打ったものだった。
「そう言えば父さんも大好きだったね」
「ああ、週に3回あれでも良いって感じだったな」
ジムから帰ってきたばかりのレオンは、ミネラルウォーターを瓶から直接傾けながら、次の手を考えている。
「俺達はお袋がまともにいなかったから、あれがそうなるのか」
「さみしい?」
こんな事、本来は己が決して聞いてはいけないのだろう。なのにエイデンは、これまたメイドお手製のアイスティーを啜り(勿論、アルコールは入っていない方のアイスティーだった)首を傾げてみせる。
「父さんがいなくなって」
次動くとしたら最前線のポーンを前進させるか、ルークだろうか。レオンの視線が、盤上から外される事はなかった。
「この広い家1人でしょ。マンハッタンにコンドでも借りたら良いのに」
「別に寂しくはないさ」
結局、動かされたのはポーン。すぐさま、エイデンにアンパッサンされる。今もしかして、忖度されたんだろうか。エイデンはほんのり眉根を寄せた。
「この家に女の子を連れてきたら、みんな大興奮して、すぐにパンツを脱いでくれる。履いてたらの話だが……下手なダイヤモンドよりも、邸宅ってのは効果があるからな。それに、プレッシャーも与えられるって言うのか。ここまで来たら逃げられないぞ、って言う」
「でも幽霊が出そう」
「出ないさ」
茶化されたから、茶化し返しただけなのに、レオンはぴしゃりとそう返した。
「そんなもの、出るもんか」
もしも自分だったら。エイデンは考えてみた。幾ら2人ほどメイドがいるとは言え、こんな所に一人では暮らせないだろうなと思う。これは何も、己が父を撃ち殺した事だけが理由ではない。
別に父の気配が怖いとか、ましてや罪悪感があるとか、そんな単純なものでない。昔から、この家が好きではなかった。そもそも、レオンが好む邸宅と言うものを、エイデンは好まない。母が病で亡くなって、一人寝の夜に彷徨う暗い廊下の何と恐ろしかったことか。柱時計の長く伸びた影へ一歩踏み込む度にびくりと身を竦ませ、月明かりが壁へ飾ってあるフランシス・ベーコン風な西武開拓時代のネイティブ・アメリカンの絵に与える陰影で震え上がり。
怖くて寂しくて泣いていたら、もしも寮から帰っていた時ならば、レオンが部屋から顔を出して、手を引いてくれた。勉強してるんだから邪魔するなよ、と悪戯っぽく笑って、己のベッドへ入れてくれる。あの部屋も決して明るくなかった。義弟の為、明かりは天井の照明もデスクランプも最低限に絞られていたから。
薄く乱反射する影は確かに、あの廊下よりも怖くは無かった。でも本当を言うと、幼い頃のエイデンは真っ暗でないと眠れない性質だったから、ずっと目を開けていたのだ。優しい兄を、じっと見つめていた。
泣いて疲弊した時は心が無防備になる。あの時ばかりは素直に、ごめんなさい、と心の中で何度も呟いたものだった。
兄の勉強を邪魔した事には罪悪感を覚えるのに、どうして更なる重罪には、心がさして動かないのだろう。兄に対するのと同じ位、父の事だって愛していたのに。
兄は一体、どこまでこの事実を理解しているのだろう。もしかしたら、義弟が実家へ顔を見せないのは、罪の意識からだと思っているのでは無いだろうか。
ごめんなさい、と再び胸の中で呟くしか、エイデンには出来なかった。取り敢えずそう言うことが、お互いの妥協点として穏当な気がする──ナイトの躍進、2つ駒を取られ、「あー!」と無邪気な悲鳴を上げるレオンへ、他に何と口にしてやれば良いと言うのだろう。
「うちのブリスケット、一般的な店よりも、パイナップルとクミンの味が強いよね。トレだっていつも美味い美味いって言いながら食べるよ。今度作り方を教えて貰って、こしらえてあげようかな」
深く考えず、むしろ事態を好転させたいと言う気持ちは山々だったのに。レオンはトレントの名前を耳にした途端、架空の戦場が劣勢である事よりも余程苦々しさを覚えたようだった。
「なあ。お前があいつに執着する気持ちは分かるけどな」
レオンが途中でそう口篭ってしまったので、エイデンは「分かる訳ないよ」と返す真似をしなかった。もう子供ではないのだから。それに、たった一人残された家族を困らせるのは、全く本意では無いのだ。
「トレは何も悪くないんだよ、兄さん」
「お前だって悪くないさ」
「ううん。悪いのは全部僕」
口では何とでも言える。しおらしく項垂れて見せながら、エイデンは何とかして、今日の夕飯の残りをタッパーへ入れ、トレントに持って帰ってやれないか考えたが……結局首を振る。どちらにしたって、今日はここへ泊まると固く決意しているのだ。




