グッドモーニング、ラオス
「固形物食べられる気がしない」
そう言ってエイデンはトマトジュースとビールを半分ずつグラスに注ぐ。勿論これが半分近く嘘であると、トレントは見破っていた。起き抜けに食器棚を漁り「グラノラないの?」と叫ぶ声で覚醒し、寝室から「無いなら無いんだろうよ」と唸ったきり。実際、数日前にエイデンが来て食べ切ったきり、書い足していない。あれは奴しか食べないのだから、欲しければ己で買い足しておけばいい。生活における基本だ。なのにその短いやり取り以降、エイデンの口数は少ない。全くお坊ちゃんは、本当にしょうもない事で拗ねるのだ。
一方のトレントは無性に腹が減って、冷蔵庫に何が残っていたかを考えながら、台所へ入る。まだジャージの下だけを身につけ、腹を掻きながらの登場に、普段ならエイデンはご機嫌だろうと不機嫌だろうと朝の挨拶を寄越す。今日は無言で、コンロへ向き合っていた。で、やっと気付く。甘く優しいケーキミックスの匂い。
少し厚みが不均衡な事を除けば、狐色のほぼ完璧なパンケーキには、あらかじめバターとメープルシロップ(これもエイデンが持ち込んだものだ)がたっぷりまぶされている。ここへカリカリになるまで炒めたベーコンを添えた皿は、食卓へコトンと小さな音を立てて乗せられる。ボナペティ、なんて促す口調は静か過ぎて、いっそ気味が悪い、と言うかうんざりする。
飯を食いながらトレントが啜る、これは自前で入れたインスタントコーヒーよりも、エイデンが迎え酒を飲み下す速度はのろついている。「大学の友達と飲んだから迎えに来て」とおねだりされて車をセントラル駅まで回した時、人混みの中でつくねんと待っていた姿は、然程酔っているように見えなかった。ベッドの中で、推測は確信に変わる──ここのところトレントは、エイデンの隣で眠った時、腕の中の存在がどのような体調なのか何となく分かるようになっていた。昨晩は体温も素面同然に低く、腕枕をしてやれば屈託なく身を寄せて来た。回した腕の中ですっかり弛緩した肉体は、飼い慣らされて野生を失った猫を思わせる程。
ナイフで大きく切ったパンケーキを頬張り、お互い無言を貫くこと15分。先に折れたのは、いつも通りエイデンだった。グラスの向こうから、不安げな上目遣いが投げかけられる。
「今日はグッドモーニングじゃなくてバッドモーニングって感じだね」
「お前が一人で臍曲げてるんだよ」
平然とそう返してやれば、手前勝手な被害妄想が始まる。
「臍なんか曲げてないのに……」
「うるせえな、何か言いたいことあるなら、はっきり口にすりゃいいんだ。そんな女の腐ったのみたいに」
「すっごい差別主義者」
まるで薬でも入れてかき混ぜるように、ティースプーンでグラスの中に渦を作りながら、エイデンはぶつぶつと口の中で言葉を噛んだ。
「別にトレへ怒ってる訳じゃないよ。昨日、酔い過ぎたんだ」
「そんなに飲んでなかっただろうが」
指摘してやればだんまり。このままでは埒が開かない。どちらかが態度を変えない限り、このままでは永遠に事態は膠着し続けるだろう。
先程は向こうが妥協したから、今回はこちらと言う訳か。嫌々ながらも、トレントは薄っぺら過ぎて舌が切れそうなベーコンを噛み砕きながら、口を開いた。
「昨日は誰と飲んでたんだ」
「ダグと、ルー」
「珍しい組み合わせだな」
「僕が紹介したんだ」
テーブルに零れていたメープルシロップの雫を人差し指で拭い、エイデンは口へ運んだ。ずっと俯いたままなのが、頑是ない幼子のようで、正直言うと、少しむらついた。
「ルーはこの二週間、お師匠さんの撮影へ着いて、タイだかミャンマーだか、どこか東南アジアに行ってたんだって。お師匠さんが愛人と擬似ハネムーンしてる間に、一人であちこち歩き回って撮って来た写真を見せてくれたよ」
「どうせまたグロい奴だろう」
「うん。ダグも引いてたけど、ニーヴの写真が出て来たら、凄く興味持ってた。彼、あの子に気があるみたい」
何だか昔を思い出した。まだ結婚していた頃、スーパーでのレジ打ちへ出かける前に妻が、職場で遭遇した客がこうだった、義母さんが電話をかけて来てどうだった、昨日テレビのニュースで観た話題でああだったと、取り留めのない話を繰り広げながら、だらだら昨日の残りのサラダを噛んでいた姿──彼女は亭主がトーストにマーガリンを塗り過ぎる、そんなに脂っこいものばかり食べていたら腹が出っぱってくると、いつも文句を垂れたものだった。あの頃からトレントの体重はほぼ変わっておらず、寧ろ再婚して子育てに勤しむ彼女の方が、幾分ずんぐりした体型になった。
「……って事なんだけど、最低だよね」
「ああ、最低な気分だよ。朝っぱらからこんな話聞かされてな」
実際は話になど全く耳を傾けていなかったが、トレントは侮蔑も露わにそう吐き捨てた。
「何でお前、そんなクソみたいな奴らとばっかりつるむんだ。くだらない事ばかり抜かしやがって」
「そんなに怒る必要ある?」
「いっそスマートフォンも何もかも取り上げて、手足叩き折ってベッドに縛りつけといてやろうか」
再びエイデンは、こちらにじっと上目遣いを突き刺した。レッドアイはもう飲み干されている。だが奴の意識をしゃっきりさせたのは、間違いなく己だ──こいつは衝動で生きる傾向が他の人間に比べて強い。相手から直裁的な感情をぶつけられると、条件反射的に肉体が反応するのだ。負の感情だとより良い。
ようやく気分が良くなり、トレントは舐めたかの如く綺麗になった皿へナイフとフォークを投げ出した。固い音へ一層緊張を張り詰めさせた対面の顔へ、ふっと微笑んでやる。
「やっとこさお目覚めらしいな」




