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鯊釣心中

第85回 お題「星月夜」「夜の散歩」

 口に放り込もうとした精神安定剤の丸い小粒達は取り上げられる。そのまま軽く顎でしゃくられ、エイデンは従順にベッドから腰を上げた。羽織った黒いジバンシイのレザージャケットは、自らにしてはマメに手入れをしているから、益々柔らかく、艶やかさを増している。

 トレントへ手を引かれるまま家の外へ踏み出しても、どこへ行くのなんて聞く真似はしない。じっと目を凝らしていれば、自ずと分かる気がした。何せこんな、半歩先を歩く男の顔立ちすらはっきり見えるほど明るい夜なのだ。冬へと向かう澄んだ夜の空気は、空から降り注ぐ光を一際明瞭に輝かせる。

「土曜日の夜は開放的な気分になるね」

 思っていることと正反対のことを口にしたら、案の定見抜かれる。ちらと視線を投げ寄越したトレントは「そうか?」と短く吐き捨てた。

 彼は何か怒っているのかも知れない。もしもそうなら、穏やかになって欲しい、といっそ恐れすら混じった気持ちで思う時がある。今がまさにその瞬間だ。兄や父や、友人達に同じような態度を取られたら、肩を竦めるか、そのままきまり悪さに舌でも出してその場を立ち去るだろうに。

 物思いに沈み、ほんの僅かに歩調が遅れただけで、トレントは手を掴み直し、引く力を強める。痛いとかやめてとか本当は言うべきなのかも知れない。でもそうやって現状を破壊する為には、口を開かなければならなかった。今のエイデンには勇気も覇気もない。ただ鄙びた住宅街を、大通りのある方向に向かって歩いているだけ。

 結局沈黙が破れたのは反対側から、小さなスパニエルっぽい犬を連れて歩いてきた二人組がやってきた時の事だった。トレントの家の3軒か4軒隣に住んでいる、何の変哲もない老夫婦。エイデンが庭にいる時に通りかかったら、いつも理想的な形に微笑んで「こんにちは」と挨拶してくれる。

「あら、バークさん」

 婦人の方がそう呼びかけた。表情は窺えないが、その声に屈託はない。トレントが黙って笑みを浮かべ、軽く手を掲げるような仕草をしたので、エイデンも弛緩した表情筋を無理やり動かし「こんばんは」と言った。

 それ以上の会話が続かなかったのは幸いだ。何らかの訝しみ、ましてや嫌悪をぶつけられる暇なく、さっとすれ違うことが出来た。ジャケットの中で首を縮め、トレントの手のひらを握り直そうとした時、気付く。もう十分、しかも一方的に、己は彼へ強く縋り付いていたのだと。自分だけが掻いている手汗は何とも気持ち悪いし、虚しい。

 二人の姿が通りの向こうへ消えて暫くしてから、トレントはくくっとさも愉快そうに喉を鳴らした。

「あの夫婦の息子、先月ロッキー山脈のどこかで遭難したらしい」

「お気の毒に」

「いや、三日位で無傷のまま助かったらしいんだかな。問題は、旦那が男友達と遊びに行ったと思い込んでた嫁さんが、救助された時に相手の正体を知ったって事だ。友達は友達でも、ファックをする為の女友達だったんだと。お陰でその馬鹿息子は今離婚争議の真っ最中らしい」

「そんな大恥掻いて、何もかも失う位なら、いっそ死んだ方が良かったかも知れないね」

「お前もそう思ったのか?」

 瞠目するエイデンに、トレントはこちらを振り返りもせず「死にたかったのか」ともう一度穏やかに繰り返した。

「さっきお前、一体何錠薬飲もうとしてたよ」

「えー、7錠? 8錠かな……」

 指を折って数え、何でも無い風を装った。と言うより、実際悪いと思っていないのだから反省しているように見えるはずもない。

「それ位飲んだ方が、ベッドの中でぐるぐる余計なこと考えずに、一瞬で眠れるから楽なんだよ」

「幾らリチウムだからって舐めてたら死ぬぞ」

「舐めてない、噛まずに飲み込んでる」

 何言ってんだろ、と内心呟きながら、エイデンはトレントの隣に並んだ。

「でも、僕が死にそうになったら、トレが助けてくれるじゃないか」

 トレントは振り返った。彼の荒々しい美貌が、血に飢えたコヨーテを思わせる笑みが、月と星の青白い光に浮かび上がる──所詮、太陽の紛い物に過ぎない輝きの癖して、陰影の中へ何が潜んでいるのかを露わにしてしまうような気がした。

「お前は本当に意気地なしで、甘ったれた坊ちゃんだよ。自分は不老不死だと思ってるんだろう」

 ここは割と大通りの抜け道に使われる。混雑から逃げてきたセダンは結構なスピードを出して正面から迫り来る。万力のように固くエイデンの手を握りしめたまま、トレントはすっと歩道と車道を区切るブロックを跨ぎ越した。

「考えたことないってのか? 俺が浅はかにも死にかけてるお前を見殺しにして、それどころか一緒に死ぬかも知れないって」

 酷く軽薄な口調だったものだったからこそ、エイデンは咄嗟に腕を振り解こうとした。けれど逃げられない。スニーカーの踵が、アスファルトの上でずりっと削れる音を立てる。ヘッドライトは今や二人はおろか、彼らの世界を丸ごと飲み込む位置へ迫っていた。

「やめて!」

 死ぬなんて、絶対あり得ない。己にも、ましてや彼にも、そういった類の度胸や弱さはない。なのにエイデンは叫んでいた。

 まるで何事もなく通り過ぎた車のテールランプが視界から消えるより早く、エイデンはトレントに抱きしめられていた。酷く満足そうな含み笑いは声だけでなく、胸の振動という形でも突きつける。

「ったく、本気にするなよ……ほら、泣くなって。こんな道のど真ん中で」

 子供のようにしくしく啜り泣くエイデンの、目元を擦るのと逆の手を引き、トレントは元来た道を引き返した。戻りたくなどなかったが、あそこしか帰る場所は無いのだ。そう必死に、エイデンは思い込もうとした。

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