私たちの世代
第78回 お題「ワイン」「大人になんてなりたくなかった」
「もしも俺があいつと同い歳だったら、こんな訳の分からん関係になってなかっただろうな」
ダイニングテーブルへ頬杖をつき、レーズンバターをつまんだトレントの呟きに、パウラは固定してある車椅子が音を立てるほど、身を仰け反らした。
「うまく行くわけない。自分が20歳の頃のこと、忘れたの」
彼女の情動が何もかも大仰なのは、少し酔っているせいだ。パウラは安くて甘いスパニッシュ・ワインを好む。だからトレントは家へ赴く時、度々スーパーマーケットで徳用瓶を買って来てやる。今日は鎮痛剤を飲んだからぶっ飛ぶよ、と本人が予め宣言していた通り、彼女はすこぶるご機嫌だった。ハツカネズミのような愛嬌たっぷりの顔へ、いたずらっ子じみたにやにや笑いを浮かべて、グラスの中身を飲み干す。
「俺が20歳の時、知らないだろう」
「大体想像はつく。昔話してたでしょう。警察学校で仲間と共謀して、教官をトイレに閉じ込めた挙句消火器3本分を頭からぶっかけたって。よく退学にならなかったね」
「奴がトルクメニスタン出身の同級生にアルカイダってあだ名を付けていびってやがったからな。大体、ありゃ21歳を超えてたぜ」
「21歳でそれなら、一年前ならお察し」
全くぐうの音も出ない。そもそも、あの事件だって別に正義感へ駆られて企んだ訳ではない。若者らしく、おふざけが大好きで、力も鬱憤も有り余っていた時に、ちょっと機会が巡って来ただけ。
今よりも更に衝動性への箍が緩く、加減を知らないガキの戯れ事。官憲への道を選ばなければ、間違いなく奴らへ手錠を掛けられる側へ回っていただろう。高校を卒業してぶらぶらしていた息子が警察官になると言い出した時、両親があれだけ喜んだのも、今になって思えば当然の話だ。結局チャンスは、起こるべくして起こした出来事であっさりフイになったが。
その事実を鑑みると、馬鹿だ頭のおかしい奴だと普段蔑んでいるエイデンの方が、あの頃の己よりも余程落ち着き払っている。覇気がないと言うのか。最近の若者は、なんて言うのに己は幾ら何でも若過ぎるが、それにしたって。
「20歳って、ギリギリなんだよね」
デカいボトルを掴もうと身を傾けた拍子に、両脚のない身体がぐらりと変な揺れ方をする。トレントが取り上げてタンブラーへ注いでやっている時も、パウラはまるで危機感など覚えていない顔で一人頷いていた。
「法律上はまだ色々配慮される。実際何だかいまいち、道理を分かってなさそうなところが」
「あいつが道理を知ったら、今までやって来た事を恥じて、拳銃で頭をぶち抜いちまうだろうよ」
そんな機会は永遠に訪れないだろうがな、と内心ひとりごち、トレントは直向きに己を慕う青年の姿を思い浮かべた。そう、まるで芯のない風にふわふわして見えるが、奴はひたむきだった。例えその性根が生まれつき取り返しの付かないほど捻じ曲がっていたとしても、表現の仕方はまるで突飛だとしても。
感情でも何でも、ただただ最大出力にしたものを何かにぶつけて許されるのは、子供の特権だ。逆を言えば、そんな事をする向こう見ずさと元気さは、若者しか持ち得ていないのだろう。
「でも私達だって、別に後悔してないよね、昔のこと」
そうあっけらかんと言ってのけるパウラを思わず見つめ返せば「君は警官を続けたかった?」と畳み掛けられる。
「私は、いつか終わるって分かってたよ。病気になった時は本当に残念だったし、未練もあったけれど、同時に頭のどこかに過った。これで年貢の納めどきだってね」
「そんな事思ってるなんて、全然知らなかった」
己は良いのだ。ブルーの制服に愛着など無かった。どう頑張っても道理を弁えられない己が、少なくとも合法のお墨付きを得られる一番手っ取り早い職業だったから、選んだだけ。けれど彼女は、あの仕事を心の底から楽しんでいるのだと思っていた。例えクイーンズでパーティー帰りのガキどもを待ち構え、散々いびって泣かせてはマリファナと財布を取り上げていたとしても、そこにあるのは──
楽しむことと愛することは本来違うのだと、その時不意にトレントは思い至った。そしてその事を、世間で生きている同年代の人間なら、そろそろ気付いているのだと。
ワインは安くで容易く手に入り、甘ければ甘いほど簡単に酔える。パウラは小さなネズミさながらに鼻をぴくぴくさせ、すっかり緊張を解いている。
「20歳の君なら、その坊やのことなんか鼻にも引っ掛けなかっただろうね、気取った金持ちの坊やだって。それとも小突き回してカツアゲでもしてたかな」
「カツアゲなんかするかよ」
「じゃあ、なあに。愛し合ってたって言うの」
そんな訳ない、と真っ先に浮かんだ捨て台詞を口にしておくべきだった。けれどトレントは少しだけ、恐らく20歳の時よりはほんの少しだけ長く考え込んでから、ゆっくりと首を振った。
「愛し過ぎて、散々楽しみ過ぎて、殺しちまってたかも知れないなあ」
アルコールではなく甘みで、舌を重く焼く酒が、喉へと侵食する。よりによって何でつまみをレーズンバターにしてしまったのだろう。葡萄、葡萄、取れなかった葡萄は酸っぱい。逆を言えば、手に入れることの出来た葡萄は──
「それも所詮は、今の君の考えでしょう。10年以上前の感性を再現しようなんて、所詮無理な話だと思うけれど」
「ああ、そうかもな」
トレントが素直に是認すれば、パウラは何故か酷く悲しげな表情を浮かべた。こういう、全てを悟りきったような顔を彼女にされると気が滅入る。かつての同僚、気の置けない友人、何度か寝たことのある相手としてだけではない存在として、トレントは彼女を認識していた。
「年を取るって嫌だよね」
「酔い過ぎだぜ」
「ああ、嫌だ嫌だ」
いい加減潮時だ。寝室まで車椅子を押してやろうと立ち上がった時、少しよろめいたトレントへ、パウラは憐みのこもった眼差しを投げかけた。
「例え子供じゃなくなっても、その子のこと愛してあげられる?」
「寧ろ歓迎するね。この退屈な地獄へようこそってな」
ほろ酔いで滑らかさを増した舌が紡ぐ嘘に、パウラは三度「嫌だ嫌だ」と呻いた。




