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16時間後に手から離れる

第82回 お題「ギャンブル」「岐路」

「クラップスのルールはよく分からないけれど、こうすれば良いんでしょ」

 トレントの右手を両手で掲げるかの如く捕えると、右の手のひらの中へ緩く握り込まれた二つのダイスにふーっと息を吹きかける。得意げな表情を隠しもしないエイデンに、トレントは思わず嘆息を漏らした。

「そう言うのはハイローラーが連れてる金髪の姉ちゃんがやるもんだ。お前みたいな疫病神がやっても、おまじない程度にすりゃ効くもんか」

 ポイントは6。来いよ、と願いながら賽を振るのは3回目。3度目の正直……11か。いっそ終わりになりゃいいのにと、うんざりしてくる。

 薄情なエイデンは、緑色をした勝負の舞台を目にして残念そうに肩を落とす。あれだけ調子よく応援していた癖、こいつはエニー・セブン(7が出ることによるプレイヤーの強制的な負け)に賭けていたのだ。

 週末はアトランティック・シティで。ボードウォークをそぞろ歩いていたのは到着した日の朝だけで(全く笑えてくる話ではないか!)結局この二日間、カジノとレストランとホテルの部屋以外の場所へ足を運んでいない。

 警官時代に覚えた悪癖で、一度サイコロを手にすると止まらない。昔ほど頻繁にカジノへ通えなくなったからこそ、一度やり出すとすっかり夢中になってしまう。

 退屈なら別行動でも全然構わない、好きなところで遊んでこいよ。そうエイデンに告げることが、随分と残酷なことならば、他ならぬトレント自身が承知していた。だがこれはこのガキが悪い。一緒にきたがったのはこいつだ。「貴方が好きなものを僕も共有したい」だなんて、歯が浮きそうな台詞を口にしながら。

 渋々付き合った昼食を挟み、午後からだけでも4時間ほど、ずっと台にしがみついているから、すっかり足が浮腫んでしまったのだろう。「明日は歩けないかもしれない」なんて可愛い泣き言を耳に吹き込まれたのは30分ほど前だったか。笑い返すだけで誤魔化し、トレントはまた手の上のダイスを揺すった。入れ替わり立ち替わりしているとは言え、自らと同じか、もっと長い事ここで粘っている奴らもいる。少なくともそのうちの1人、ドント・カム(プレイヤーの負け)でたった今200ドル追加した奴は、明らかに素人ではない。奴が立ち去るまでは頑張っていたいなと思う。正確には、その泣きっ面を拝むまでは、と言う事だが。

 更なる裏切り、エイデンもまたドント・カムでチップを数枚積み上げる。

「薄情な奴だな」

「貴方に言われたくないよ」

 関節部分に幾らか皺の寄った昨日と同じスーツを着込み、鶴の首のようなグラスへ注がれたギネスを煽っているエイデンは、普段のお坊ちゃん然とした物腰から、一足飛びで大人になってしまったかのようだった。カジノにはこれまで数度しか足を踏み入れたことがないと言っていたが、随分と様になっている。

「正直僕、自分のことを依存症になりやすい性質だと思ってたけれど、これの良さは全然分からないな」

「分からなくていいさ」

 何故か少しホッとした気分になる。さながらゲートの中で出馬を待つサラブレッドのように、トレントはすっかり毛足の摩耗した、ネオンピンクの絨毯を爪先で軽く擦った。

「お前、本当にその張り方でいいのか?」

「いい」

「ルール分かってんのかよ……そんな無茶するくらいなら、あっちでスロットかビデオポーカーでもして来いよ」

「でも僕、ポーカーのルール知らないんだ」

「冗談だろ」

 振り返った先にある煉瓦色の瞳が至極真面目腐り、落ち着き払っていたのを目にして、いよいよ肩も落ちようと言うものだ。

「後で教えてやるよ。そうしたらとっととあっちで遊んできてくれ」

 隠しもしない邪険な態度へ、エイデンは間違いなく機嫌を損ねた。むくれた顔でもう一枚、50ドルのチップを賭ける。

結局それから4回もシュートした挙句、トレントは見事勝利を掴み取った。ギャンブラーは肩を竦め、隣の台へと移動する。ある意味儲けを手に入れるよりも清々した気分だ。

 配当を掻き寄せる相棒を片目に、反対側を無慈悲にもレーキで引き上げられていく己のチップへ向けながら、エイデンは退屈を持て余しているのを隠しもしない様子で、そっとトレントの肘に触れた。

「勝ったんでしょう、お兄さん。もう一杯ビール奢ってよ」

 ふざけた物言いは、まだ浸っている勝利への陶酔と、公衆の面前であることを加味して見逃してやる。すぐさまビールとスコッチを運んできた、金髪美人のウェイトレスが携えた盆に落としてやった余分の30ドル。彼女が唇を窄めて来たので、トレントも片目を瞑ってやった。

 露骨な秋波のやり取りを目の当たりにしても、エイデンはヒステリックに声を尖らせたりなどしなかった。ただビールを一気に半分ほど飲んで、「これぬるい」と腐しただけ。

「良かったね」

「まだまだ。あと一日あれば、もうちょっと面白いことになるぞ」

「僕は明日学校だよ」

「じゃ、バス乗って帰んな」

 今度こそ、エイデンはコインやらアルコールやら、とにかく男を興奮させるものが入ったコップをめい一杯抱えているトレントの目をじっと見つめた。

「本当に帰るけど、いい?」

 そんな芝居かかった態度が脅しになると思っているこの青年を、トレントは心底哀れだと思ったしーーそして、少しずつ興奮の引き始めた脳が認識する。こいつを躾けてしまったのは、少なくとも大人と呼ぶべき人間になってから、遊び方を教えたのは、己自身だったと。

 つまり、すっかり好みに育ってしまった。しげしげと眺めるトレントへ、エイデンはとうとうぶっきらぼうに「なに」と尋ねた。

「いや、お前は可愛い奴だと思っただけさ」

「嬉しくない」

 左手でじゃらじゃら鳴らされるチップは残り少なく、周囲へ這わされる視線は、一体どこで使い切ってしまおうか悩んでいる。預けてくれたら3倍にして返すぜ。そうトレントが軽口を叩く前に、アルコールでうっすら充血した唇が、案外明瞭な動きを作る。

「もしも最後に賭けた時、5回以内に勝負がつかなかったら、本気で帰るつもりだった」

 あながち嘘とも言えず、かと言って真剣とは程遠い物言いへ、トレントは少しぞっとした。けれどこれだって結局は、賭けのスリルへ簡単に飲み込まれてしまうものなのだ。

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