いたずらか手懐けか
第34回 お題「ハロウィン」「トリックオアトリート」
とは言うものの、あの映画しか思い浮かばない。ジェイミー・リー・カーティスが主演している、近親相姦のメタファーがぷんぷんするスラッシャーもの。
「憎いから殺す?」
「そりゃそうだろうな、愛してる人間を殺すなんて馬鹿げた話」
そこまで言って、oops、なんてわざとらしい呟きと共に肩を竦めるのだから。今や2人の間で、エイデンの父親殺しはすっかりミームと化している。
「僕は父さんを憎んでなかった」
「本当に?」
「されて嫌なことはあったけど」
テレビに映っているのはマイケル・マイヤーズではなく妊娠中絶の歴史に関するドキュメンタリーだった。どうせまともに観ていない。カウチヘ沈むようにしてだらしなく腰掛けるトレントも、彼の肩へぐんにゃり頭を預けているエイデンも。明らかに閉経している女性活動家が、若い頃の経験を苦々しげな顔で語っているのを眺めているのだが、話が碌に耳へ入ってこない。自分の考えを整理するのに、脳内がとにかく忙しかった。
「俺が親父さんとヤってるのがそんなに嫌だったか」
「え?」
言葉付きがやわやわと聞こえたのは、外で子供達がはしゃいでいるせいだろう。まだ陽は高いのに、気も早くお菓子をせがんで回っているのかも知れない。
トレントは近所付き合いを碌にしていないらしく、親に頼まれてガキどもが家の扉を叩く事はないと請け合った。今夜も2人きりで過ごすのだと言う宣言。「トレみたいに怖い顔なら仮装しなくても子供は泣いちゃうんじゃないかな。それとも元警察官だから喜ぶ?」なんて混ぜ返すことにより、その場の空気は重くならず、頭を小突かれるだけで済んだ。
「その家特有のスキンシップってあるじゃん。いや、どうだろう無いのかな。とにかく昔から父さんはさ、よく僕のことを擽って来たんだよね」
「お前だけを?」
「義兄さんはもう大きかったから……昔はされてたのかも。だって彼もよく、僕にやったもの。床を転げ回りながら、涙が出る程大笑いしても、無理やり抑え込んで体中、こちょこちょ手を這わせるんだ」
「いつも放ったらかしにしてる息子へ構う為の悪ふざけだろう」
「まあ、そうなんだと信じたいんだけどね」
一つ大きく息を吸い、そこから先を続けるべきか考える。路頭に迷いかねない女達の為に中絶を施していたせいで、火炎瓶を投げ込まれた診療所のニュース映像。過激派に銃撃された産婦人科医が担架で搬送される。医者の不養生。憤りを覚えつつ少し笑ってしまった自分に罪悪感を覚える。
全く、どうしてそんな酷いことが出来るのだろう。彼女達は自分を守りたかっただけなのに。
「でも、僕……こんな事おかしな考えなんだろうけど、心の片隅で、父さんに襲われてる……って言ったら大袈裟か。何だか恐怖を感じたんだ。まるで夢の中でお化けに追いかけられるみたいな恐怖をね。うん、父さんや義兄さん自身は、毛程も考えてなかっただろうな。でも僕は勝手にそんな風に思ってた。だから余計に居心地が悪かったよ」
エイデンの肩へ回しているのと反対の指で、手挟まれた煙草から今にも灰が落ちそうになっている。灰皿の上で乱暴に吸い口を弾くだけには飽き足らず、半分ほどになったポールモールはぐしゃりと捻り潰された。
「fondling or grooming」
「全然上手いこと言えてないよ」
ぎこちなく笑い、エイデンは相手の口元から漏れる紫煙の匂いに鼻をひくつかせた。彼のシャツに染み込んだ機械油の匂いと、何かケミカルさを纏う体臭と混ざり合うことで、生々しさが相殺される。何故か、とてつもない安心感に襲われた。
「お前がそう感じたなら、それが事実なんだろうよ」
「良いのかな、肯定しちゃっても」
「今日は地獄の蓋が開いて、悪魔が自由に歩き回るのを許される日だぜ。何でもありさ」
この手の社会派ドキュメンタリーにはかなりの割合で登場する、リンカーン記念堂の白い外観に被せられるナレーションは、申し訳ないが聞いてなどいなかった。頬への口付け。ついでに目尻からこめかみへ。顎にかけられた指先がいかにも手慣れていて、警戒心を解く。
「トレ」
「んー」
「これはなあに」
素直にトリックかトリートと呼んでもいいのか、それとも犯罪臨床心理の診断で使われるような物言いで表現すべきなのか。「そうだなあ」と間伸びした口調で呟きざま、降りてきたトレントの唇が口角に触れる。そしてエイデンの唇にも。面倒な問いかけを黙らせようと思った訳ではないのだろう。舌すら入ってこない行為は、愛情を示威しているのだと、何故かエイデンは確信した。
「嫌だったって言いながら、お前、実のところ」
「うん、あくまで記憶だよ。殆どは楽しかったんだ。ちょっと思っただけ」
地獄の蓋が開く。悪魔と共に、よからぬ考えも飛び出してくる。本当にこれは自らの考えなんだろうか? マイケル・マイヤーズが所詮映画の中のキャラクターに過ぎず、ホラーのセオリーに則って女性嫌悪を拗らせるよう、予め脚本の段階で設計されていたのと同じく。
映画の中では、脚本を逸脱するようなアドリブは許されない。実際の人間は、やろうと思えば暴走することも可能だ。しっぺ返しがとてつもなく大きいと言うだけの話で。
「ああ、そうさ。お前は可愛い奴だ」
「ほんと?」
「だからこうやって、お前に触れてる」
「触れる」とは、まさしく子供に悪さをする性犯罪者みたいな言い方。擽ったくて、エイデンは首を竦めた。昔父親にされたように、やめてよ、と歓声を上げながら力一杯叫びたいような感覚には陥らない、柔らかでぬるま湯のような擽ったさだ。
「僕もトレのことが好き」
「好きと可愛いは違う」
「僕のこと好きじゃないの?」
「いや。だがそいつは別物の感情だってことは覚えておけよ」
そう嗜めるものの、トレントは上機嫌に喉を鳴らしながら、テレビのリモコンに手を伸ばした。オフにするのかと思いきや、メニュー画面に戻って、「最初から再生」を選ぶ。
「どうしてまた観るの」
「さあな」
トレントは肩をそびやかし、再び幼子がお人形へするようなキスをエイデンに与えた。これは正真正銘、沈黙を強いる為。彼自身何も考えていないのだから、答えを求めても手に入れることは出来ないだろう。
今夜はセックス、するのかな。これまで何度も考えた想定を、エイデンは今また頭に思い浮かべた。彼のする、初めての時。全く他人事のように思える、妊娠中絶の権利剥奪の危機に関するドキュメンタリー映画を観ながらの行為。それって子供達が物をねだる声を聞きながらするのと、どっちが酷いんだろう。
さっき飲んだビールのせいで、深く考えるのが面倒だ。きっとトレントだってそう思ってる、レトリック抜きで、触りたいだけなのだ、いつも通り。だって部屋の中は微妙に肌寒い。
ばらばらにした責任をあちらこちらに投げ捨てると、エイデンは目の前の男の真似をして、あれこれ思い煩うのを放棄した。