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2時:ポケットに入れるか、飲み込むか

第27回 お題「十五夜」「満月」

 思う存分戻した後、よせばいいのにバーの隅へ出来上がっていた人だかりの中心を覗きに行ってまた嘔吐。「バットの中に入ってたんだ男の人が藤の花にキスしてた、まるで恭しく」

「まあ、妙だと思う気持ちは分かるよ、人の身体から離れたパーツってのは何でもそう見えるもんだ。俺も新人警官の頃、電柱とトラックの間に挟まってほぼ胴体がちぎれてるのに、まだ呻いてる露天販売のアラブ人を見た時は、流石に人体の神秘の信奉者になった。そりゃもう、えずいたぜ、ありゃ」

 優しくあやす口調の慰めによって、もう胆汁ですら迫り上がって来なくなったエイデンの肉体は、失われた水分を何とか補充しようと危機感を覚えたのだろう。5杯目のブランデー・ジンジャーを注文する。

 益々泣き腫らし、一層紅潮した頬でぼんやりしているガキを席へ置き去りにして、トレントは店の裏口に向かった。運び込まれた好奇心への供物はもう病院へ返されたらしい。今店の中で一番存在感を放っているのは、奥のスペースで小さなロールスクリーンに映写される映画だった。切断された脚を見たがる連中よりは遥かに健全な趣味。インディーズ系と言う括りにすら混ざり込めない、学生映画に毛が生えた難解な前衛作品を鑑賞しているのは5、6人程。中にはこの店で勤務している子もいる。

 今日はタイミングが悪かった。普段ならば、もう少し落ち着いた店なのだ。深夜2時へ到達した今までに、少なくとも3回は、物珍しい原石へ声をかけてくる人間がいただろう。

 今エイデンを1人にしたのは、趣向を変えてみるのも良いかも知れないと思ったからだ。普段のやり方が上手くいかないなら、そうするのが当然の話。狼の群れに兎を放置したらどうなるか。飼い主が戻った頃には骨すら残っていない?

 まさか。兎には牙が生えているのだ。

 灰色のペンキで塗り込めたような扉を開いたら、そこはこの時間帯でもちらほら車が行き交う、片道1車線道路へ面している。この店がヒップなんて呼ばれていた時代には、店の前をぐるりと取り囲む長蛇の列の、ちょうど3分の2位の位置に当たる場所。昔はミック・ジャガーが時折顔を出していた「玄人向け」の店も今や薄汚れ、けれど違う客層に居座られて寂れる事はない。

 いや、「違う」と言うのは間違いだ。「居座る」だけが正しい。一片の欠けもない月を見上げながら、トレントは煙草を吹かした。ここで暇を潰し先輩を待っていたの期間はそう遠い昔の話ではない。長じて自身が取引をするようになっても、トレントはよくここで一服してから、夜の警邏に戻ったものだった。

 最近は元お仲間もここに来ないのだろうか。ひょっこり顔を出すのは、どうしようもない馬鹿ばかりだ。

「おたくの連れ、フィリップス夫妻に絡まれてるよ」

 先程エイデンを歯が浮くような台詞で褒めまくり、写真を撮っていたガキが、くちゃくちゃとガムを噛む合間にそう告げてくれる。

「あのままほっといたら、3Pに巻き込まれると思うけど」

「いい薬になるさ」

 咥えたポールモールを口から離す真似すらせず、トレントは首を振った。

「奴は病気なんだよ。生半可な治療じゃだめだな、ちょっと荒っぽい位でないと」

「へえ。まともそうに見えたけど……クスリやってる?」

「向精神薬」

「そんなの今時誰でも飲んでるよ」

 馴れ馴れしい態度は、あと少し続けられれば、誰かを思い出すことが出来そうだった。だがそんなことに脳の容量を使うのも馬鹿らしいと、即座に思考を切り替える。

「あの子大学生だよね。僕FIT(ニューヨーク州立ファッション工科大学)に通ってるんだけど」

「おあいにく様、あいつはNYU(ニューヨーク私立大学)だ」

「金持ちのお坊ちゃんか。てっきり援交してるのかと思った」

 うっすらと眉間に皺を寄せてしまったのは、全く忸怩たる話だった。カメラ小僧はぱちんと割れたガムを舌で手繰り寄せてから、平然と言葉を続ける。

「あの型落ちのジバンシィ、あんたが貢いだんだろ」

「そう言うお前もパパさん持ちか」

 他人へスポットライトを当てて弄んでいるガキが、今度は光の中へ引き摺り出される番だ。煌々と照らす満月の中、大きな瞳が一層丸く見開かれる。その無邪気さに、ふと店の中で所在を無くしているだろうエイデンを思い出した。

 尤も、あいつの発露は空虚で、目の前の青年ははち切れんばかりの邪悪さ。かつて取り調べ中にちょくちょく遭遇した事がある。車で人を撥ねた時に被害者が生きていたら、反射的に再びアクセルを踏み込むタイプの人間だ。

「着てるのはブランド物のセカンドライン、服から見える範囲にスミは入れてない、パパとママが嫌がったか? 芸大でガキを遊ばせる余裕がある位には金持ちの家だな。だがカメラは新品。ついでに左腕へ嵌めてるゼニスは、幾ら何でも大学生のセンスにしちゃおっさん臭過ぎるし、高価過ぎる」

「しょうがないだろ、あの人懐古趣味なんだから」

 唇を尖らせ、青年は肩を竦めた。

「その喋り方、お巡りだね。謝礼は払うからさ、現場写真撮らせてくれない?」

「ネットニュースに売るのか」

「まあ、半分は趣味だけど……今の季節って、夏の暑さでおかしくなる奴もひと段落して、あんまり事件が無いんだ」

「てめえがアンテナを伸ばしてないだけさ、クソガキ。秋も案外とち狂う奴が多い。特に満月の晩はな」

「狼男じゃあるまいし……それに、犯人には興味無いんだ。僕が好きなのは、痛めつけられてる人間」

 ぷっと道端にガムを吐き捨て、青年は踵を返した。

「あの子の事、普段から殴ってるんだよね? 酷い怪我したら、電話してくれない?」

「殴ってない」

 深々と吐き出した紫煙は涼やかな夜の空気に棚引くが、眩しい光を遮ってはくれない。全く忌々しい話だ。汚れた灰皿で短くなった煙草を捻り消し、トレントは吐き捨てた。

「殴ってどうにか出来るなら、くたばるまで殴ってるさ」

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