0時:日付変更線上のグラス・キャンディ
第26回 お題「長い夜」「キス」
あれだけ泣いたのだから当たり前だ。バワリーにあるナイトクラブへ到着した時も、目の腫れは一向に引いていない。仕方ないのでオークリーのサングラスを掛けたまま店に入る。
よくない場所なのだなと分かったのは、誰も彼もが、皆穏やかで、なおかつ一定以上の覇気を保ち続けているからだった。ここに無気力な人間はいない。
くたっとしたジャージを身につけ、カウンター席でビールを飲む若造はおろか、高級な仕立てのスーツ姿でマティーニ・グラスを傾ける中年の男女まで、誰1人として隙をつけそうな人間はいない。奥の方の席に座っている、店子飼いの女の子達ですら、目は決して笑っていなかった。薬をやっているにしてもコカインを景気付け程度なのだろう。さながら宮廷で働く男衆達を監督する女官のように、じっと周囲の様子を睥睨している。
そんな人々の中を、トレントはすいすいと泳いで行く。10年位前のクラブシーンじみた、熱帯魚の水槽じみた極彩色の照明の下で、彫りの深い彼の横顔は普段に増して凄みが増す。まるで当然の如く、何人かは彼に声をかける。
「貴方がこんな洒落た店で馴染みになってるなんて」
「警官時代によく来てたのさ」
しれっとした顔で返し、トレントは、若く抜け目ない目つきのバーテンダーへ告げた。
「ビール。こいつはいつも、ブランデー・ジンジャー」
サファイアブルーをした革張りのカウチへ腰を下ろして幾らもしないうちに、酒は運ばれてくる。
23時28分。今から酒を飲み始めたら明け方にはへべれけになってしまうだろうから、加減しなければならない──その時点でエイデンは、今夜家へ帰して貰えることはないだろうと確信していた。自ら頼み込んで外出した訳だし、トレントは嫌に上機嫌だ。今こそお利口さんのふりをして口を噤んではいるが、ほんのちょっとしたきっかけで、そっくり返り笑い出しそうな勢いだった。
「トレ、ここって」
「シー、いいから大人しくしてろ」
瓶のまま出されたバドワイザーを煽りながら、トレントはそう耳打ちした。背もたれに腕をかけざま傾けられた身体からは、微かな汗と、家を出る時付け直されたウッディなフレグランスの匂いがする。
「じっくり周りを観察するんだ。連中がお前を観察する視線を感じながらな」
一見さんが好奇の視線に晒されるのは当然のこと。自らも、浴びる立場、浴びせる立場、両方に立った事があるので、そんな事は重々承知だった。
だが一度トレントに意識を誘導されてしまうと、顔が火照る──この季節にしては十分着込んでいるから、最小限の肌のちり付きで済んでいるのは僥倖と言えるのかもしれない。
バーテンダーも。あの夫婦、カップル、それとももっと違う関係の男女も。カウンターでグラスを舐めている極めつけの美女も。テーブル席を囲む男達も。カウチでマネキンのように微動だにしない美しい若者達も。皆こちらを見ている。網膜には映していなくても、彼らの脳内で、すっかり己が味わわれている事は間違いなかった。だがどれだけ好き放題に弄ばれようとも、他人の妄想を止めることは出来ない。
ざわめく心を持て余し、すっかり虚脱したようになっているエイデンと反比例して、トレントは自惚れていた。悠然と脚を組み、周囲へ示威するかの如く、コバルトブルーの瞳をぐるりと走らせる。それでも挑まれたら、カウチに引っ掛けた手でさりげなくエイデンの首筋に触れる。無骨な指が襟足の毛先を挟み、頸動脈をすりっと背で擦る。
フラッシュが焚かれたのは、エイデンが2杯目のブランデー・ジンジャーを飲み干し、すっかりネオンカラーの陶酔に沈みつつあった時のことだった。緩慢な動きで首を捻り向き直ると、一眼レフを構えた青年は「いいね、その顔」と、場違いな程快活に声をかけて、もう一度ことんとシャッターを切った。
「その唇の腫れてる感じとか、赤くなってる頬とか……彼とファックしてた? それとも殴られたの」
「別に」
トレントが平然としている、ならば、この青年と交流することは、問題のある行為ではないのだろう。ぼんやりと答えるエイデンよりも1つか2つ上。パパラッチと言うよりは、毎朝牛乳を飲んで育った健全な大学生と言った物腰だった。
「あなた記者?」
「違うよ。驚かせてごめん、通りの向かいの病院でカメラマンをしてたんだけど」
フィルムを巻きながら、その青年は肩を竦めた。
「ちょっと特殊な仕事でさ。病理医学研究会と愛好団体が半分って感じの。さっきまで、身体完全同一性障害の女の子が、健康な右脚を医者に切り落として貰ってたんだ」
「トランスエイブルドって奴?」
「そうそう。で、記録写真を撮る依頼してきた団体の人が、万が一の時に誤魔化せるよう、フィルムの最初の数枚は全然関係ない写真を撮れって」
それまで相手などいないも同然に振る舞っていたトレントが「写真送って貰えよ」と口を挟む。
「そうだね。ここの店に預けとくか……住所教えてくれたら郵送するけど」
「今時フィルムなんだ」
お互いペーパーナプキンに住所を書き込みながら、エイデンは与えられた刺激へ、ただ反射的に答えた。
「珍しいね」
「こう言う仕事はフィルムが多いかな。管理しやすいからだろうけど」
照明のおかげで、カビの生えた死体じみた肌色を持ちながらも、青年はにっこり笑んで見せる。
「君って凄く魅力的な顔してるよね。無垢って言うのか……思わずシャッターを押しちゃったんだ」
「そんな事これまで一度も言われたことないけど、有難う……ルー?」
「どういたしまして、エイデン。今からもう片方の脚も切断するから、撮りに行かなきゃ。あんな綺麗な脚なのに勿体無いな。すらっとしてて、素敵な藤のタトゥーが入っててさ」
周囲の関心がまだこちらへ向けられている間に、エイデンはトイレへ駆け込むと、胃の中の全ての液体を便器に吐き戻した。
「こんなのでびびってたら、先が思いやられるぜ」
「僕、あの子のこと知ってる」
背中を摩るトレントへ、そう返すのが精一杯だった。何故己がこんなにも動揺したのかは分からない。ほんの数度会っただけの娘だ。精神に些細な問題を抱え、吸血鬼の誘惑と、己の衝動に屈した乙女。
よろよろと顔を上げたエイデンに口を濯ぐ暇すら与えず、トレントは苦い胃液や吐瀉物にまみれた唇へかぶりつく。汚れすら、いや汚れこそを、彼は興奮の引き金にしてしまうようだった。
「ここにいなきゃ駄目?」
「まだまだ」
まるでエイデンの口の中が乗り移ってしまったかのように、臭い息を吐きなから、トレントは鼻歌でも歌い出しそうな口調で囁いた。
「夜はこれからだ。腹括れ」




