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メレダイヤ

第79回 お題「指輪」「宝石」

 母は父に「指輪を返せ」と言われなかった唯一の妻だった。流石に埋葬される女の薬指から婚姻の証を引き抜く真似をするほど、父も鬼畜ではない。

 そもそも地中深く埋められ、2度とお目にかかれないのだから、何も問題ないではないか。彼が恐れていたのは、婚姻関係を解消した後も、伴侶であったと言う事実を振り翳されて自分のお楽しみを邪魔される事。事実レオンの母親は、自らの次どころか3代目にあたる元夫の妻ですら、相当執拗に攻撃した節がある。エビータよりも度胸満点だったエイデンの母は、他人の嫉妬を浴びれば浴びる程、歓喜で美しく輝いて見せたものだが。

「母さんはシルバーにサファイアの指輪だった。銀は手入れが大変なんだ。それに、本当にいいサファイアは、ダイヤモンドよりもずっと値が張るんだよ」

「聖母の御心って訳か」

 バイクの整備を終え、機械油で爪の中まで真っ黒になった手をタオルで拭いながら、トレントは鼻を鳴らす。きょとんとした顔で見つめ返せば「讃美歌であるだろ」と続けられるものの、益々訳が分からない。

「お前、お袋さんによく教会へ連れて行かれてたって言わなかったか」

「そんなに行かないよ。大抵は彼女が1人で通ってただけ」

 クアーズの缶を傾けながら、エイデンは庭を横切り母屋へ向かうトレントの背中を追いかけた。

「本当は僕、行って欲しくなかったんだけどね。日曜日は母さんと遊びたかったんだ」

 母はサリヴァン夫人である事を心から愉しんでいた。己がその名に収まらないだけの個性を有していると熟知し、遺憾無く発揮していたからだ。

 それでも尚、一族の名から距離を置きたい時があったのだろうと、今なら理解する事が出来る。悲しくないかと言われれば話は別だ。生まれた時からサリヴァンでしかないエイデンの中で、それは永訣の象徴じみた逸話だった。

 今やサリヴァンと刻まれた墓石の下で眠る事により、彼女は永遠にこの家へ繋ぎ止められる事となった。奔放な魂へ鎖をつけることに良心の呵責を覚えるべきなのだろう、本当は。けれど安堵する。悪徳についてなら、エイデンは美徳よりも遥かによく知っていた。

「父さんはトレには指輪を渡さなかった?」

 ビールの冷たさが残る指を、トレントのまだ汚れが残る無骨な指に絡めたのは、子供が迷子にならないよう大人の手を握る位のつもりだった。なのにトレントは、心底気味の悪いものでも見るような目付きを、エイデンの笑顔に向ける。

「渡す訳ないだろ」

「じゃあ僕が渡そうかな。トレント・サリヴァン……悪くないんじゃない?」

 何度か名前を口の中で繰り返しているうちに、けれど自然と眉間へ皺が寄ってしまう。これは聞き慣れないせいだと信じたいが、少し引っかかる。やはりトレント・バークの方が響きは良いように思えた。

「それとも、エイデン・バーク……何だかマンハッタンのど真ん中にある小さい公園みたい」

「それか中西部の地方都市だな」

 手が振り解かれたのは、キッチンへ入って自分用のビールを冷蔵庫から取り出す為だった。一息に半分ほど飲み下し、トレントはダイニングテーブルに浅く腰掛けた。

「ま、くれるってんなら、ダイヤモンドは大ぶり、台座は金で頼むぜ」

「趣味悪い」

「高く売れるって言ってんだよ」

 投げ出したエンジニアブーツ履きの足でエイデンの脛を蹴り、からりと笑いながらそう言ってのけるのだ。

「昔、同僚が押収品をちょろまかして売ってた事がある。笑っちまうよな。ハシディズム(超正統派ユダヤ教徒)のコミュニティから脱出してきた女やガキが生活に困って悪事を働いた時、連中が唯一持って逃げてきた宝石屋や貴金属を、ウィリアムズバーグで売り飛ばしてたんだから。ヒトラーもびっくりのえげつなさだ。で、身ぐるみ剥がされた逃亡者達は、結局家に連れ戻される」

「それ、全然笑い事じゃないね」

「長年の習慣から逃げ出すのは、それだけ大変だって事だよ、クソガキ」

 今の嘲りによって教え諭そうとした相手が己だと言うことは分かる。けれどエイデンは、例えの揶揄した対象が何であるかを、飲み込む事ができなかった。哀れなユダヤ人か、それとも彼らの生まれ故郷で彼らの同胞に盗品を売っていた警察官。もしかしたらトレント本人も、加担していた事があるのかもしれない。

「でも僕はカトリックの教えにそこまで熱心じゃないな。同性婚反対なんてクソ喰らえだ」

「そこまで拗らせてるなら、とっとと宗旨替えしちまえ」

「別に宗派なんか何でもいいよ。例えジム・ジョーンズに師事したとしても、世間ものが、僕の求婚を認めてくれないもの」

 本当のことを言えば、出来たらサリヴァンと言う名前は変えたくないし、そもそも己がトレントと結婚したいと思っているのかすら定かではない。寧ろしたくないのではないか──彼と2人で郊外の一軒家に暮らし、子供を作って育てている己が全く想像できなかった。

「ただ僕、貴方と一緒がいい」

 そう、これが一番しっくり来る。一緒にいたい、の範疇を超える何か。

 エイデンが漠然とは察知しつつも、うんうんと悩み続けなければロジカルに理解できない事を、トレントは最初から心得ている。空の缶を両手でべこべことへこませ、もう一本飲もうかどうか思案しているエイデンの頭をわしわし撫でては、酷く楽しそうに口元を歪ませる。

「お前は屑ダイヤをみたいな奴だよ」

「普通こう言う時って、原石って言うんじゃない?」

「いや、お前はもう完成されてるよ。ドリルの先っぽにつけて、物を削ったり割ったり出来る」

 でも間違いなくダイヤモンドには違いなかった。それに、眺めて身につけるだけの役にしか立たない宝飾品よりもよほどいい。

「例え価値は低くてもな」

 じゃあ立派に価値のある宝石だね、まるで貴方みたいだ。言おうとした矢先にそう返され、思わず歪めそうになった顔を、エイデンは一層俯く事で誤魔化した。

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