ブラック・ダリア、10時間前
第78回 お題「白露」「長電話」
濡れた服はさぞかし不快なことだろう。そろそろ褪せ始めた庭の芝生は一本一本が雫を纏い、寝転がるエイデンの身体を受け止めた後でじゃれつくかのよう。
さながら死体だ。昔似たような写真を観たような気がする、しかも非常に有名な写真。警官時代に閲覧した現場検証資料ではないし、新聞記事でもない。まだ太陽も昇りきらない、全体的に白飛びしたような世界が、余計にあの状況とだぶる──思い出した、モノクロ写真だった。となると、相当古いもののはず。頭上で変な角度に曲がった肘や、草に部分部分が隠れているおかげで身体がバラバラに切断されたかの如く見える、あの死体。ここまで具体的に思い出して、何故事件の内容が記憶から蘇らない。
寝室の窓越しに、微動だにしない青年を眺めながら、トレントは耳に当てたスマートフォンへ苛々と八つ当たりをぶつけた。
「あいつは死んだよ、くたばった。庭に死体を放り出してあるから、今から埋めなきゃならん」
そうぶっきらぼうに捲し立てられ、電話口のレオンは明らかに動揺したようだった。本当に信じてしまったのなら間抜けも間抜け。幾らサリヴァン一族の中で「出来の悪い甥っ子」と言われている男であっても、こんなあからさまに悪趣味なジョークは流石に理解して、とっとと切り捨てて欲しいものだった。
「おい、トレント……」
「冗談だよ。あんたの弟は、今日珍しく早くから起き出してな。太陽が昇りきるのを待つんだと、灰になりたいらしい。ほら、吸血鬼みたいに」
「それも冗談だよな」
「さあねえ」
目を閉じて、微睡んでいるかの如く身じろぎ一つしない衝動的な坊や。実際、眠っているのかも知れない。下ろされた厚ぼったい瞼に唇で触れたくなった。
そう込み上げてくるたび、受話口の声が邪魔をする。
「この夏休み、弟がうちへ帰ってきてたのなんて、半月あれば良い方だ。別に夏期講習受けてた訳じゃ無いんだろう」
「ルームメイトも実家へ帰ってるし伸び伸び過ごせたって、休暇を満喫してたみたいだな」
「みたいだなって、どうせそっちに入り浸ってたんじゃないのか」
「そこまでじゃない」
そう嘯いた後に、まあ少なくとも半月以上はこの家に来てただろうなと付け足す真似はしない。まさか弟とファックしたいなんて露ほども思ってはいないだろう。レオンは別の観点から弟に手を伸ばし、トレントとの付き合いを渋る。
つまり、自分が思うところの「正常」と言う範囲にエイデンを繋ぎ止めておきたいのだろう。まだ太陽は顔を見せ始めたばかりで、今日が酷暑に堕ちるとも、涼に収まるとも判断が付かないならば、せめて弟が人生を過ごしやすい方向へ導きたいと思っている。
そんな事が出来ると思っているのだ。なんと美しく、たわけた兄弟愛だろう。日は昇る、後はなるようにしかならない。人間如きに制御できるものではなかった。
ならばお前のやっている事だって無駄じゃないかと、往生際の悪いレオンなら抗してくるだろう。少なくともトレントは、やり方を知っている。日傘をさせば良いのだとか、二酸化炭素を減らせば良いのだとか。医者がよく使う「気長に経過を見守りましょう」の重要性なら、今電話で話している短絡的なお坊ちゃんよりも遥かに理解していると自負していた。
機能不全家庭とは言え、何だかんだ上げ膳据え膳の扱いを受けてきたレオンは、とにかく何でもすぐ手に入ることへ慣れきっている。だからエイデンと電話で会話を長く継続させる事すら出来はしない。「もういいよ」「分かった」「ごめんね、次からは気をつける」そう言ってエイデンがさっさとスマートフォンをタップし通話を終えてしまう姿なら、これまで数えきれない程目にしてきた。
加えて元来の社交的な性格から、とにかく口を開き続ければ会話になると思い込んでいる節がある。コミュニケーションに言葉が必要とは限らない。黙って耳を傾けていれば、いやそれどころか、お互い無言で相手の呼吸に耳を澄ましていれば、往々にして繋がりが成立する事もある。
昨夜もエイデンが20分近く電話口で黙りこくり、挙げ句の果てにおかしないびきを掻き始めたので、学生マンションへ行ってみたら、案の定。深酒と頭痛薬のカクテルが祟ってふらついているエイデンに肩を貸して1時間ほど部屋を歩かせ、無理矢理塩水を飲ませて嘔吐させてから家に連れてきた。ベッドへ押し込んでも一晩中ぐずぐず泣いていた有様だ。いい加減ネジが切れたらしい。
細く窓を開ければ、ひんやりした風が頬を撫でる。今日は過ごしやすい一日になるだろう。ここを乗り越えれば、地面に横たわるエイデンの元へ行ける。トレントは熱くなったスマートフォンを顔から離した。40分以上、この繰り言に付き合わされている。
「とにかく、周りが何言おうと、あいつは自分のやりたい事しかやろうとしないさ」
「一人前の大人として、そんな事許されないだろう」
「あんた、あいつの事を大人だなんてこれっぽっちも思っちゃいないだろうが」
レオンが一瞬黙り込んだ隙をついて通話を終える。
裏口の扉が軋んでも、さくさくと芝を踏みしめる足音が近付いてきても、エイデンは反応を寄越さない。ジーンズが湿る事などお構いなしに、トレントは青年の傍らへ腰を下ろすと、小さな顔を囲うように両手をついた。腫れた目がぴくぴくと痙攣し、潤んだ煉瓦色の瞳が細く覗く。
「トレ」
「なんだ、死んでないのか」
揶揄へ応える代わりに、エイデンは薄い胸を上下させ、肺が呼吸を通していることを示した。
「この庭、もっと手入れしたら。花でも植えたらいいのに」
「お前が花みたいなもんだろ」
全く心の籠もっていない猫撫で声は、案の定相手に全く響かない。エイデンの頬を指で撫でながら、トレントは殺された挙句ばらばらにされて捨てられた少女の死体について考えていた。それに比べて目の前の青年は、血の気が引いていると言え、生きている者の最低限の温みは保っている。
屍じゃないんだから、せめて愛想良くしろと口角を2本指で引っ張ってやれば、鬱陶しげに手を叩かれ振り払われた。上機嫌に喉を鳴らし、トレントは無気力な肉体を抱き上げる。今度こそエイデンは、死体の如く従順に、抵抗を一切示さなかった。




