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自尊心のない男

第62回 お題「暮れ(なず)む」「心残り」

 3時のおやつにケーキが2つ用意されているとか、映画館でほぼ同じ時刻に上映が開始される作品が3作あるとか、基本的にエイデンは選択の機会を与えられた時に迷わない。己の直感こそ信じていないものの、衝動に逆らえないからだ、まだ今のところ。

 そんな奴が、フレッド・ペリーの店舗に足を踏み入れて一時間近く悩んでいる。すっかり辟易してスマートフォンを弄っているトレントの背中にあれを当て、これを当て──終いに「こっち向いてよ」と癇癪じみた勢いで、低めた声を叩きつけられる。

「ああ、駄目だ、ドツボにはまった。迷っちゃうよ」

「そういう時は買わないのが一番だな」

「でもせっかく来たのに」

 休日の暇潰し。昼過ぎに学生マンションまでエイデンを迎えに行き、ソーホーをうろうろしていたら、いつもの気まぐれを発揮したエイデンに店舗へ引っ張って行かれた。時たまこの青年は、トレントを着飾る事に大層な執念を燃やすことがある。要するに独占欲のような感情なのだが、「だってそんなにハンサムなんだし」なんて釈明が通ると思っているのだから、全くこの国の大学教育とはさぞご立派な物なのだろう。

 そこまで猿知恵を働かせてみる割には、思い至らないのだ。己が必死で差別化を図っているその父親と、全く同じ行動を取っていることに。

 エイデンの父親のやり方はもっと洗練されていて、仕事の途中でバーグドルフ・グッドマンへ立ち寄らせ、パーソナル・ショッパーに押し付けるという物だったが。確かにあの男も、ああでもない、こうでもないと着せ替え人形にされるトレントに講評を加えていた。ずらりと服が並べられたハンガーラックの前で、いかにもプライドの高そうな中年女が薄笑いを浮かべていると気付いてか気付かずか。

 20代の頃に恥を掻いておけば、30代になれば面の皮が厚くなる。

「お揃いだけはやめろよ」

「分かってるよ。僕とトレじゃ似合う服が違う」

 そうやって一生懸命服を選ぶエイデン自身は、ストリートファッションではなく、将来的にミニマリストへ移行するプレッピーと言う出立を好む。今日は上から下までラルフ・ローレン。あの独特の緑色のボレロ・カーディガンに、同じくくたっとした感じがする水色のクレリック・シャツ、象牙色のチノパンなんて格好は、店内で徹底的に浮いている。アイビーリーガーでもない癖に、徹底してお坊ちゃんであることを隠さない。そうしなければ、小麦色の肌は、周囲へ簡単に本来の地位を忘れさせれしまう。

「トレはほっといたら黒ばっかり着るものね。ここには絶対に無いから、ちゃんと選べる」

「言っとくが、俺はプラウド・ボーイズをぶちのめす側にいたんだぞ」

「でも点数稼ぎで、売人が所持してたクラックの量を水増し報告したりしてたんでしょ」

 パーカーを選んでいた、いかにも最新の社会規範に怒りを燃やしていそうな負け犬じみた白人男性が、こちらへ一瞥を投げる。無表情で見つめ返して視線を逸らさせると、トレントは溜息をついた。

「俺は機会均等主義者なんだよ。白だろうが黒だろうが茶色だろうが、目についた奴には片っ端から手錠を掛けてた」

 寧ろお目溢しして貰う為の金を渡さない、自尊心の高い連中は、白んぼに多かったんじゃなかろうか。

「どっちにしろ、右翼団体と似たようなものじゃない」

 今度はエイデンが、ふっと口元だけの淡い笑みを浮かべる番だった。煉瓦造りの壁に取り付けられたガラス棚に並べられる、色とりどりのポロシャツを見渡し、また一着手に取ろうとする。もう限界だ。トレントは軽く身を捩って再び背を向けた。

「ポロシャツなんか着たら日曜日のパパさんに見える」

「そんな事ないよ。それは着こなし方が悪いだけだよ」

 パンツも合わせて買うからと言われて、怖気を震いそうになっても許されるだろう。ショーウィンドウの向こうのブルーム・ストリートはすっかりオレンジ色に染まっている。一時間位だと思っていたが、実際のところもっとグズグズしていたのかもしれない。よく訓練された店員は何も言ってこないのが幸いだった。

「じゃあ、こっちのダークネイビーのとワインレッドの、それか白、どれがいい?」

 渋々と言った風でエイデンが選んだ候補は、かなり妥協された結果なのだろう。一つずつ指でさし示す仕草は子供っぽくて可愛らしいので、まあ横目位は投げてやる気になる。

「白はテニス選手みたいだな」

「フレッド・ペリーってテニス選手だよ」

「知ってる」

 あの水色とか選びやがったら、と顎でしゃくった時点で服で、早とちりしたエイデンは恐怖すら覚えた顔で「あんなもの着たいの?」と首を竦めた。

「違うよ。あっちに陳列してあるベルトでお前の首を絞めてたところだった、って言おうとした」

 一応雇用関係にあった手前、エイデンの父が選んだ服にトレントが文句を言うことは殆ど無かった。今もこちらが財布を出さないことに変わりはないが、自由にケチを付ける権利があるし、思う存分行使している。

 けれど、同時に思うのだ。今もし羞恥というものを覚える必要があるならば、あの警官時代の基本給ではとても賄えない服を着ていた時と、また違う理由からだと。今や可愛い男を愛でるのはこちらになっていた。

「赤」

「意外」

「ネイビーはその蛍光グリーンのストライプが気に入らない」

「そうかなあ。若々しくて良いと思うけど」

 かつて与えられた服は半分くらい売ったか捨てた。ストリップ・バーでキートンのジャケットなんか着ていて、酔っ払いのゲロなんか引っ掛けられたら、自分が腹立たしい存在に思えてくる事は間違いなかった。

 物質的に言えば、あのスーツに見合った生活をしていたのだとは、思い返さないようにしている。目の前の青年に集中すれは、気を逸らす事はさして難しくなかった。

「じゃあこれ」

「お前はあのオレンジとか、黄色とか、白だって似合うと思うぞ。派手なストライプも悪くない」

「お揃いは嫌だってトレが言った癖に」

 レジでクレジットカードを出し、紙袋を押し付けた時までは、エイデンもそう嘯いていた。だが結局、西ブロードウェイに出た辺りで「やっぱり買えば良かったかな」と呟く。踵を返そうとするのを、掴む手首で引き留め、トレントはずんずんと横断歩道を突き進んだ。もう夕陽は今にもビルの谷間へ消えようとし、腹も減っている。

「ポロシャツならラルフ・ローレンで買えばいいだろ」

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