王の食卓
第24回 お題「手料理」「ディナー」
トレントに聞いた話。彼の父は家庭に関する事へは比較的マメな男だったが、一度だけ結婚記念日を忘れた事があるそうだ。
数回あったレイオフの何回目かの直前だったとか、それに仕事自体もきつかったのだろう。くたくたになるまでこき使われ、現場から事務所に戻りタイムカードを押したのは夜の9時、そこまでは妻も想定している。暑い夏の最中だったから、同僚に誘われてビールを一杯、これも目を瞑った。が、疲弊した身体にアルコールは染み渡り、気付けば3杯、4杯。重たい尻からスツールに根が生える。
当時の人々は、良い歳した大人の帰宅が遅くなったところで携帯電話に連絡するなんて発想が無かったらしく、トレントの母はただ待つばかりだった。すっかり支度の整えられた食卓の前に腰掛けたまま。祝日にしか棚から出されない、柔和に輝くボーンチャイナの食器の上で、ローストビーフは乾いていく。セロリのポタージュに膜が張る。メニューの中に出来合いの品は何も使われていない。サラダに入れるえんどう豆まで、子供達を動員して鞘を剥かせる気合の入れようだった。
傷まないよう避難させれば良かったのに、彼女は何時間もの間、料理をテーブルの上へ出しっぱなしにした。これも取っときの白いテーブルクロスの上から皿を持ち上げた瞬間、夫が玄関のドアを開ける事を心底恐れていたかのように。或いは希望を抱いていたのかも知れない。そもそもあれだけの豪勢なメニュー、冷蔵庫の中へとても入りきらなかっただろう。
結局夫が千鳥足で家の敷居を跨いだのは日付も変わる直前のこと。妻は盛大に夫を詰った。いつもの如く怒りへ任せて喚き立てるのではない。あの勢いは何というか、ぶつける事で相手をとっちめると言うよりも、自分を壊そうとしてるみたいだったな。そう言って、トレントは感慨深げに顎を撫でて見せたものだった。
普段から仲睦まじい夫婦喧嘩へ慣れっこになっていたトレントやその兄弟ですら、異様さを感じる気迫。父も勿論謝った。ひたすら下手に出て、必死に宥めようとした。
「あんな風にお袋が為す術なく激情へ飲まれる様子を見たのは、その時を含めて人生に数度しかない」
恐らくその最後の機会のきっかけとなったエイデンは、ムースにたかっていた小蝿へ気付いてすぐさま、しまったと焦りを覚えた。
「タッパーに入れておけば良かった」
弄っていたタブレットを食卓に置き、「おかえり」と続ける。
「遅かったんだね」
「ちょっと店でトラブってな」
「えっ、大丈夫だった?」
「ああ、解決した」
と言うのが嘘だと、何故かエイデンはその時に限って見破った。今日、エイデンが家に来ることをトレントは把握していた。幾らトラブルだと言っても、早番の彼の帰宅が定時を7時間も過ぎないはずだと、エイデンが知っていることも。
だが彼だって人間だ、気の乗らない日だったのだろう。一晩中構ってやるのが面倒で、ちょっとどこかで暇を潰していた。仕方ないね、と内心エイデンは嘯いた。最終的に帰って来たのだから、とにかく英気は養えたと呼べる状態まで回復したらしい。
「寝てていいから」とテキストは来ていた。「子供じゃないから起きてる」と怒っておいた。で、彼が潰す暇をこちらが持て余すのも癪だったので、ちょっと腕まくり。時間は腐るほどあるから、わざと手の込んだ物を作ったが、まさか午前様になるとまでは想定出来なかった。
エイデンはしばらく、前菜を乗せた青い皿をじっと見つめ、考え込んでいた。エビを詰めた白身魚のムース、ビスクソース仕立て。マドレーヌ型に整えられたそれは、以前も何度かトレントに振る舞ってやったことがある。母の好物。お袋の味では無い、作ってたのはハウスメイドだった。大学に進み家を出る時にレシピを教えて貰った。相手を喜ばせたい時に作る取っときのご馳走の第一撃として。
だがエイデンは、正直なところ、他人を喜ばせると言う概念を己が上手く理解しているかどうか自信があまりなかった。とにかく独りよがりで自己を中心とした考えしか出来ない人間に、他人が望むことを慮って実行すると言う行為ほど難しいことはない。独りよがりに善意を押し付け、相手が拒絶したら怒りを覚える。それは駄目だと、カウンセラーのノックス先生にすら嗜められた。
従順なお人形になる必要はない。ただ善人になりたい。
うんざりしているのを隠しもせず、見守るトレントの前で、エイデンは唐突に立ち上がった。すっとテーブルから皿を取り上げると、そのままゴミ箱へ直行する。
艶と弾力に富んだムースは呆気なく皿の上を滑り落ち、残った分もスプーンで払い拭う。トレントは明らかに動揺したようだった。
「おい、何もそこまで……」
「これ傷みやすいんだよ、今頃きっとサルモネラ菌だらけになってる」
彼に伝えたかった。自分は怒ってなんか全くいないのだと。
事実、心は不思議なほど凪いだままだし、それは言葉にも態度にもきちんと表せていたはずだ。なのにトレントは毒気を抜かれた様子。こちらが戸惑ってしまう。やがて吐き出された「勿体ないだろう」という言葉は、明らかに不本意で、本心とはかけ離れた物なのだろう。
「生憎俺は庶民だから、食い物を粗末にする教育は受けてこなかったんだよ」
「しょっちゅう冷蔵庫で野菜とか腐らせてるし、食べ残したピザとか平気で捨ててるじゃん」
唇を尖らせれは、頭を小突かれる。何か間違ったらしい。いや、これは呆れたと言わんばかりの小生意気な口ぶりに対してのお仕置きだ。そう思っておく。
「ステーキ肉みたいなのがあったから、それ焼くつもりだったんだけど、もう遅いしやめとく?」
「もうちょっと軽いものを……それ以上ひっくり返すな、俺が探す。お前も食うか」
「うん、もうぺこぺこだよ」
「おい、まだ食ってなかったとか言うなよ」
瞠目に対し、「だってトレと一緒に食べたかったんだ」と正直に答える。口にしてからだ。もうこんな時間だから、トレントが外で食事を済ませて来ただろう可能性を考えたのは。やっぱり駄目だった。デフォルト状態で放っておかれると、自分の意志が正しいと思い込み続けてしまう。
冷蔵庫の前でしゃがみ込み、しばらく眉間を揉んでいるトレントに「冷凍食品は無さそうだったから、明日……もう今日だけど、買ってこなきゃね」と恐る恐る話しかける。結局彼は唸りざま、ジーンズのポケットから車のキーを掴み出した。
「クソ面倒になってきた。外で済ますぞ、何が食いたい」
どすどすと荒っぽい足音を追いかけながら、叫ぶエイデンは出来る限り脳をフル回転させ、彼の喜ぶ答えを弾き出す努力をした。
「バーガーキング!!」




