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上書きでは容易すぎる

第23回 お題「昔の男」「未練」

 間違いなく、父はトレントに貢いでいた。仕事用のぱりっとしたスーツはイタリア風の、少なくともイージーオーダーだったし、靴も小物もそれに合わせたレベルのブランド物。運転手にしては分不相応な腕時計をはめ、住み込みになった際乗って来たインパラの他、ガレージにはバイクが数台。酒も食事も自腹を切らせる事はなく、勿論給金そのものもたっぷり弾んでいたはずだ。

 彼を選んだことからも分かるように、父はある点に関して言えば趣味が良かった。それに、トレント自身が適応力の高い男だ。たった3年足らずの愛人生活とは言え、ある程度の審美眼と物欲を磨き上げる事は容易かったに違いない。

「僕は社長じゃなくて、せいぜい幹部止まりだろうからね」

 エイデンの呟きを、トレントは脈絡のないものだと思ったらしい。カウチで寝転び弄っていたスマートフォンから顔を下げ、フローリングに座り込んでコーヒーを啜っている青年へ横目を走らせる。

「貴方の欲しいもの、全部は買ってあげられないかも」

「誕生日プレゼントならいらないからな」

「誕生日、いつだっけ」

「近くはない」

 液晶画面に表示されたホームページは多分チューダーかどこかの公式サイト。父の側で乙に澄ましていた頃はロイヤル・シリーズの一本を使っていたように思うが、近頃着けているのを見た事が無いので、もしかしたら売り払ってしまったのかも知れない──胃の辺りがぎゅっとなる。

 彼にはブラックベイ・シリーズが絶対に似合う。一番安いランクなら、今でも頑張れば購入出来るだろうか。誕生日を聞き込み、プレゼントとして本格的に検討してみても良いかもしれない。

「経費で落とすにも限度がありそうだし……最近うちの会社も厳しいみたいだから」

 下克上と成金が持て囃される西海岸やシリコンバレーと違って、ニューヨークのヒエラルキーは未だ驚くほど旧態依然としている。『ゴシップガール』でやっていた通り、純資産総額と社会的地位は本来全く異なる物差しなのだ。

 浮世から数インチ離れた場所を漂っていると、幼い頃から言われがちだったエイデンでも、その点に関してだけはきっちり己を弁えていた。自らとその一族は古風な東海岸において「それなり」の身分であること。金に全く困っていなくても、それが即ち億万長者を意味しないという事。

 幸い、エイデンが引き起こしたような事件はさして珍しい話でも無いので、サリヴァン家の名を汚した事にならなかったのは僥倖だった。もしも傷付いたとしたら、それは自分自身の名のみ。

 大学院を卒業した暁に(MBAの取得は、早期復学の条件の一つだった)一族を率いる伯父は、人殺しの甥をちゃんとした地位に付けてくれるだろうか。もしもエイデンが何も問題を起こさなければ与えられていた、然るべき地位に。

「そりゃ爪弾きにはしないだろうさ。変にいびったら、何するか分からないような奴を」

「確かにね」

 曖昧に笑って、エイデンはトレントの膝へじゃれるように後頭部を擦り付け、顔を仰けた。

「もしも下請け会社なんかへ飛ばされたら、夜中に伯父さんの家へ忍び込んで、あの人の飼ってるボルゾイに除草剤をまぶしたステーキ肉でも食べさせるよ」

「笑えねえな、全く」

 別にこちらも笑わせるつもりはない。縁に指を引っ掛けてこちら側に向けたスマートフォンを、エイデンは改めて覗き込んだ。

「これ欲しいの?」

「喉から手が出るほどって訳じゃ無い。新作が出たってネットで広告が流れたらチェックしてるくらいのもんで」

 それって十分、「興味がある」の範疇に入るんじゃないの。逆さまになったメーカー希望価格についたコンマの数を数えながら、エイデンは思わず目を細めた。

 改めて、彼が自らを得る為に失ったものの値段について考える。いや、こんなの押し付けられたという方が近い。義兄はちゃんとこの、巻き込まれた不幸な愛人に補償金を払ったのだろうか? 面と向かって聞がなければと毎回思いながら、すぐさま「そもそも誰に?」と言う疑問文が強固に立ちはだかる。

 一族がまともに補填しないなら、エイデン自身が償わなければならない。本来はそれが当たり前の話だ。

 それに、父が残した負債も支払わなければ……彼だってトレントを傷つけたろう。肉体的な意味ではなく、自尊心や、人間として大切なものを。札びらさえ切れば、無礼が帳消しになると言うのは、さもしい考え方だ。少なくともエイデンの社会階級の人間なら本来許されない。古風だっていつも悪いとは限らない。

 コーヒーを床に置き、そのまま腹に跨ってきたエイデンへ、トレントはただ片眉を吊り上げただけだった。余りに平然とした顔に腹が立ったから、こちらも対抗するように、シャツを頭から脱ぎ捨てる仕草も色気のない、何気ないものにしてしまう。

 トレントが制止してきたのは、自らのシャツの裾から手が這い込み、直に肌へ触れた時のことだった。

「お金は無理だけど、他のものでなら払える」

「何言ってんだお前」

 軋みそうなほど手首を強く掴まれても尚、往生際が悪く腹筋を撫でてくる指先を遠ざけ、トレントはもう一度「何言ってんだ」と呟いた。少し怒ってすらいるような口調だった。

「知ってんだぞ、コーヒーにブランデー垂らしてやがっただろう」

「酔ってないよ! ただ、僕……」

 ひっと喉の奥で悲鳴を上げたのは、トレントの青い瞳に射竦められたせい…それならばどれ程良かっただろう。自分が何をしようとしていたのか理解した途端、期待も願いも将来の展望も、何もかもが霧消してしまった。

「僕……貴方の記憶から父さんを消すには、どうしたら良いだろう」

 まるで地の底まで落ちたような気分でそう尋ねる今こそ、強固な繋がりを求めていたのに。トレントは握りしめていた手をぱっと離した。

「無理無理。お前にそんな事出来るかよ」

 「どんだけ自分がご立派と思ってやがるんだ」と小馬鹿にした口調で続けられ、とうとうエイデンは目を閉じてしまった。

「僕が父さんを撃たなければ、今でも貴方は贅沢三昧の生活を送れていたかも知れない。その可能性を潰しちゃっただけでも嫌だ」

「どうせそんな事考えてやがるんだろうと思ったよ」

 気圧のせいか? などとの嘯きに反論する暇も与えられず、無骨な指の背に頬を撫でられる。暗闇の中、結局エイデンはそれに縋るしかなかった。

「お前が親父さんを殺したのは事実だが、その後の選択は俺のものだ。お前なんかにどうこう出来ると思うなよ」

 それじゃ全然解決になってないんだよ。心が悲鳴を上げている。くすんと鼻を鳴らしたのは肌寒さ故だと、トレントが勘違いしてくれることを祈る。きっとしてくれた。投げつけられシャツを顔面でまともに受け、エイデンはそう必死に思い込もうとした。

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