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辛うじて日帰る

第33回 お題「温泉」「旅館」

 わざわざ尋ねて来たのに1人で家へ置いておくこともできず(ここで「トレは優しいね」と呑気に賞賛される)今日は癌になった友人の為、滅茶苦茶効くと言われる漢方薬を買いにチャイナタウンまで行くからと(2回目の「本当に優しい」の抑揚もまた薄っぺらいものだった)インパラの助手席に追い立て片道5時間。殆どが山道な小旅行の帰り道、エイデンは「てっきり山の中で殺されて埋められるのかと思った」と、まるで昨日の夕飯を報告するような口調だった。つまり、冗談を言っているのでは全くない。

 「死にたいのか」とトレントが尋ねれば「まさか、そんな……」と曖昧に口籠りながら、片手でスマートフォン、もう片方の手はカーナビゲーションを。2つの電子機器が連動した時、表示された地図の中に示された目的地のフラグは赤く、周囲の更地の中で殊更目立った。

「天然のホット・スプリングだって」

「どうせバックパッカーで一杯じゃないか」

 そうはぼやくものの、早朝から連れ回した手前もある。何よりエイデンのガラス玉みたいな瞳は傷一つない透明さで、却下されることを全く想定していないと来ていた。

 幸い、深い木立の中へ突如現れる温泉は無人、案内看板が見えた時点でアディダスのスニーカーを足元へ落としていた位なのだ。車が止まるや否や、エイデンはぱぱっとセーターやジーンズを脱ぎ去った。衣服を最低限は畳む、無意識下にまできっちり刷り込まれた育ちの良さへ、思わず鼻を鳴らしそうになる。見ているこちらが寒さを感じる前に、ボクサーブリーフ一枚で飛び出して行く姿は全く子供だった。

 きゃっと幼げな歓声の後に「あったかい」とこれまたはしゃいだ声が、飛沫の跳ねる響きに続いて聞こえてくる。水音はすぐ、ほぼ完全に鎮まったから、泳いでいる訳ではないらしい。池内の制限人数は5人と踏む、ちょっと大きめのジャグジー位。

 どうせすぐに飽きて上がってくるだろうから、その間昼寝でもしようと最初は思っていた。だがやんわりと立ち上る湯気の向こうから、丸っこい後頭部と小麦色の肩口が見えた時、ふっと衝動が湧き起こった。

 ぼちゃんと乱暴な響きに薄目を開ければ、向かい合う位置に生まれたままの姿で湯の中へ入ってきたトレントを認めたのだろう。エイデンは少しと言え、間違いなく動揺していた。

「下着位着たら」

 それから数秒、自らの言葉を反芻し「元々履いてなかったっけ」と呟く。これは確認でなく、己を納得させる為。

「せめてタオルとかないの」

「日本の温泉では何も着ないで入るんだ」

 水と地面を区切る岩に腕を引っ掛け、下手くそなメロディで鼻歌まで歌ってやる。せっかく全身の筋肉をほぐす様な心地良さにも関わらず、エイデンの四肢はごくごく淡い緑色の湯の中で、確かに縮こまった。

 その細っこい体躯と物言いたげな視線に、トレントが間違いなく衝動を覚えているのと同じく、エイデンも相手の存在に興奮している。恐らくは、精神的な閾でのみ。引かれた顎に反比例して、上瞼にめいいっぱい引き付けられた眼差し。股間を覗き込まないようにしているのが一目瞭然のぎこちなさはヴァージンもかくやの初々しさだった。別に初めて見る訳でも無かろうに。

 いや、実のところ、下手に手練れの女よりも、処女の方が残酷なものなのだ。

「ああ、日本の温泉って言えばね」

 湯へ浸かりそうになっていた顎を持ち上げ、不意にエイデンは口を開いた。

「東洋近代文学の講義で少し読んだんだけど、日本人はこう言う山奥の温泉に愛人と行って、そこに併設してる古い宿で心中するんだ。第二次世界大戦のちょっと後位に、そういう文学が流行ってたって」

「『シャイニング』のホテルみたいな?」

「なんて?」

「それともモーテル的な」

「うーん、かもね」

 返事が湿度でぼやけ反響すると言うだけに留まらず、あまりまともに話を聞いていないのだろう。そぞろな物言いは間違いなくエロティックだとトレントは感じた。己に対して興味を失った奴の声と言うのは。

「何だか暗い。温泉って身体の調子を整えてリフレッシュするところだろうに」

「静養して正気に戻ったら逆に死にたくなるんだろう」

「生きてる人間はみんな狂ってる?」

「少なくとも、心中なんか企てる奴は間違いなくな。一つの自殺、一つの殺人」

「一つは嘱託殺人じゃないの。それとも自殺教唆?」

「お前、自殺しようとしてる人間を見たことあるか」

 伸ばした爪先で蹴ってやった脛は湯質だけでなく、すべすべしている。身体接触にエイデンはもはや頓着しない。千切れ雲が浮かぶ空を仰いだのは、こらから重ねられる蘊蓄に予めうんざりしているからだろう。

「俺はある。警官時代に、12階建てのビルから身投げしようとしている馬鹿な野次馬の上へが降ってこないよう、交通整理に派遣された」

「あれってそう言う理由で通行止めにしてるんだ」

「12階分の勢いを付けてボディプレスを決められたら普通に死ぬからな。とにかく、結局野郎は飛び降りたよ。俺と10フィートも離れていない位置に」

 濡れた手のひらで顔の汗を拭い流すエイデンは、それ以上言わないで欲しいとフィジカルで明確に意思表示をしている。けれど、だからこそ、トレントは話のパンチラインまで駆け抜けた。

「降ってくる奴の顔を見たが、間違いなく驚いてた。自分でやった癖、あたかも不意打ちで背中を押されたって言わんばかりに。結局、どんな時でも誰にとっても驚きなんだよ、死なんてものは」

「そう言えば、父さんもそんな顔してたかも」

 降参の証に、うんざりとエイデンは首を振った。

「分かんない。実際、結構飲んでたんだよ、僕。トレの方がよっぽど素面だったでしょ……」

「俺は外にいたんだぞ、あの時」

「セックスの後にバルコニーで煙草吸うなんて、チャック・ノリスみたい」

「えらく古いミーム知ってんな」

「もういい。酷いことばかり言って」

 結局ずり下がった身体につれ、尖った唇が湯の中でぶくぶくと泡を吹き出す──前に、不貞腐れた声音がふうっと水面の表面を滑って、こちらに寄越された。

「そんな意地悪するなら、もしもの時、心中してあげないから」

 こいつはほんとに、人の生命なんてどうでも良いのだなと、改めて呆れ返る。他人だけでは無い。自分のものすら。

 裏寂れたモーテルの一室を想像した。明かりもつけない暗い部屋の、へたったベッドの上。目の前の華奢な身体へ馬乗りになり、顔へ押し付けた枕越しに頭を撃つ。使うのは昔愛用していたグロック17だ。頭で理解し、口で偉そうなことを抜かしつつ、いざとなればこいつも抵抗するのだろう。確かめたいから、枕は無い方が良いかも知れない。

 それに怖がらなくても、すぐに後を追いかける。腿の下で身体が動かなくなったら、まだ熱い銃口を咥えて引き金を引く。それで終わり。

 その瞬間、決して焦ったりせず、完璧な無表情を貫ける自信が、トレントにはあった。この青年を散々コケにしておいてから言うのも何だが。

 湯から上がり、そのままジーンズを履く事が許せず、結局下着を脱いでいるエイデンは、更なるからかいにすっかり臍を曲げていた。全く何もかもが馬鹿げていた。

 この近くに宿はない。今から2人で家に帰るのだ。

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