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レイト・デート

第60回 お題「たまの休日」「たゆたう」

 クラブという職場の特性上、トレントが土曜日に休める事は稀だった。なのに今日はまる一日空けたのだと、朝一番に学生アパートまで迎えに来る。いつものインパラではなくカワサキのバルカンで。

「よく休めたね」

 投げ寄越されたヘルメットを受け取りながらエイデンが問い掛ければ、何だか寝不足みたいな口ぶりで「仮病使ったのさ」と返される。

 あまり機会はないが、エイデンはトレントのバイクに乗せて貰うのが好きだった。大好きな人の身体に腕を回してぎゅっとしがみつき、猛スピードで飛ばすことが楽しくない訳はない──確かにルームメイトのダグとタンデムしてもスリルは満喫できるが、こんな体の芯からドキドキわくわくするような事はなかった。

 逆に考えれば、こんなにも胸が躍るのは、己がトレントを愛しているという証拠なのだろう。まだ父が生きていた折、つまり己が彼への正直な気持ちを自覚していなかった頃。同じようにして何度か後ろに跨らせて貰った事があるが(それがエイデンのバイク走行初体験となった)あの時既に、自らは確かにときめいていた。誘われた事がうっとりするほど嬉しくて、うっかり有頂天に浮かれ、終いに「そんなはしゃぐなよ、大袈裟だな」と呆れられたものだった。

 あの幸せな日からもう何年だろう。思えばそれなりの時間を、トレントと過ごしている。彼が疲弊したエイデンの父親を助手席に捨て置き、スラックスのベルトを締め直しながら運転席から出てきたのを見た時には、まさかこんな関係になるなんて思いも寄らなかった。人生には何て嬉しいサプライズが待ち構えている事か。

 「どこ行くの」との尋ねかけには「お前はどこ行きたい」と質問が戻ってくる。こう言うお互いに明確な目的が無い時のイニシアティブをトレントが丸投げすることは珍しい。

 折角だから思い切り甘えるべきだった。けれど数拍遅れて「土曜日だからどこも混んでるだろうな」と続けられたならば「じゃあ混んで無いところにしようよ」と言うしか無いではないか。

 あらかじめ教えておいてくれれば計画を立てたのに。拗ねた気持ちは、でも目の前に聳える広い背中へひたりと身を寄せれば、簡単に揺らぐ。チェンジペダルが蹴られて、3速へ加速していく頃にはもう、鬱屈など雲一つない春の空へと綺麗に霧消していた。

 まあ想像力の欠如しているこの男の事だから、お出かけと言ってもたかが知れている。チャイナタウンの裏通りにある寂れた熱帯魚屋でカラフルな小魚達を品定めしてみたり(アパートに置きたいと、以前から時々思い出すたびに口にしていたのだ)そのままリトル・イタリー側に数歩踏み込んで『ローマの休日』のオードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペックよろしくジェラートを食べてみたり(実際のスペイン広場は飲食禁止なのだと言う)

 普段からトレント・バークと言う男は、エイデンの用事につきあう時、まず退屈そうな顔をしている。エイデンがそれを無視して好き放題するのはもはや当たり前の状況と化していて、お互いに不満は抱いていない筈だった。

 今日のトレントも無関心である事は確かだった。けれど、何か違う。張り詰めていると言われればそうなのだろう。けれどそれはいつも纏うあの意気軒高な攻撃性と言う訳でもなさそうな気がした。エイデンが話しかけても、普段のようにしかとするのではなく、本気で相槌をうち忘れる。

「何か悩みでもあるの?」

 チョコレート味のジェラートを舐めながら、観光客でごった返すファーマーズ・マーケットから逃げる最中、エイデンは首を傾げる。今回も返事は寄越されないかと思っていた。だが辺りをぐるりと見回してから、トレントはぱっとそのコバルトブルーの目を、隣のエイデンの目に合わせる。

「お前こそ、そんなおどおどしてどうした」

「質問に質問で返さないでよ」

 安物の氷菓はオリエンタルな香料の香りが強い。さっき露店で対応してくれた店員も、間違いなくイタリア系ではなく、もっと中東系の顔をしていた。古いものの上へ新しいものが積み重ねられていくのは当然と言えば当然の話だ。

「僕は禅問答したいんじゃなくて、貴方に教えて欲しいんだ」

 当たり前のことを嘘偽りなく口へしただけなのに。トレントは一瞬、虚を突かれたような顔をした。

「そうか」

 人の波に流されぬよう、ぎゅっとエイデンの腕を掴み、歩調が早められた暁には、もう顔も正面へ向けられている。彼が逃げたと、その時エイデンは思った。まるで何気なく、つまりエイデンが望んでいたように、そこから話が重ねられても尚。

「昨日、親父とお袋の結婚記念日だったんだ」

「へえ、おめでとう! 何周年?」

「34だったか5年だったか。まあ俺にはお呼びなんか掛からなかったけどな。不意に思い出した」

 元からそこまで親密な関係ではなかったと聞いている。だがトレントを家族、特に両親から完全に引き離したのは、間違いなく己だった。ごめん、と謝ろうとして、結局エイデンはやめた。全く意味がないことをしたところで、トレントは喜ばないと思ったからだ。

「それだけの長い年月、離婚もせず2人で一つの人生を生きるなんて大したことだよな」

 その癖肝心のトレントは、夢でも見ているような口調を作るのだ。変なの、と内心嘯き、エイデンは分厚いコーンへ歯を食い込ませた。

 気付けば日も暮れかけ、バイクは夕陽の中を疾走する。いつもの山道を、大型バイクは軽々と上り、フランスかぶれのダイナーを通り過ぎ、自殺者の多い崖へ。

 実際にここへ来るのは初めてのこと。てっきり頂上にあるスポットだと勘違いしていたのだが、実際は山の中腹、麓から45分くらいのところに位置している。何だか飛び降りる前に、車を停めて記念撮影したりする事が推奨されているような場所だった。バイクを降り、疎らな草を踏み締めながら、トレントは取ってつけたように設置されているガードレールから下を覗き込んだ。

「今日は遺書も置いてないみたいだな……見てみろよ。馬鹿な奴らはみんなここを乗り越えて、真っ逆さまに落ちるんだ」

 無数のうねりが寄せては砕ける赤っぽい崖は、本当ならばもっと無機質な色をしているのだろう。今や殆ど山の向こうへ隠れつつある太陽は、最後の灼光を放ち、傍らに佇むトレントの横顔を血でも浴びたように染めている。

 まるで寄り添うかの如く肩を抱かれても、エイデンは黙って、これまで数多の命を奪ってきた水面を見下ろしていた。

「お前のことを愛してるよ、エイデン」

 ふと、穏やかに、安らぎすら与える程穏やかに、トレントがそう口にする。

 その時確信した。彼がエイデンも、己自身も殺したいと思っているのだと。

 だって自分達はお互いどうしようもなく愛し合っていて、それなのにまだ全然若くて、これから先少なくとも35年は生きなければならない。そんな事に耐えられるかと言われれば、はっきり言ってエイデンだって自信がなかった。

 貴方の好きにしてよ、僕は貴方に従うから。意思表示として逞しい肉体へ身を預け、どれくらいそのままでいただろうか。結局トレントは、ぱっと腕を離した。

「下の店で食って帰るか」

「うん」

 こうして2人は、またいつもの日常に戻る。走り出したバイクが下り坂に入ったのを良いことに、エイデンはトレントの肩に頭を乗せた。「僕も貴方を愛してる」そっと囁いた声は、己の耳にすら届かなかった。

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