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第18回 お題「七夕」「遠距離」

 約束してたのに、と詰っても、トレントは頑として譲らない。「近々天気が崩れそうだろう。また雨漏りしたら、今度こそあいつ、肺炎になりかねない」でも僕の方と先に約束してた、2週間も前から、と言い募りが最後まで聞き届けられる前に、通話は強制終了されてしまった。恐らく彼はもう車に乗り込み、ニューハンプシャーかどこかに住んでいる癌の友人の所に向かっている。何ならとっくにニューヨークの州境なんか突破しているに違いない。

 シャワーを浴びていて着信に気付かなかった。もしもっと早く気付いて応答していたら、引き留める事が出来たのかも。

 いや、結局無理だったろう。彼はいつでも、己のやりたい事をやり遂げる。

 首に掛けていたタオルで乱暴に頭を擦っていたら「何やってんだ、死んでるんじゃないだろうな」とドアの外から声が張り上げられた。後半の台詞は末尾へ向かうにつれ、明らかに言った事を後悔して語調が弱まる。

 そんな過敏になるなら無理にジョークへしなくても良いのに。実際にぼやきこそしなかったものの、扉を乱暴に閉じ、傍らをすれ違ったエイデンを見て、レオンは何とも罰の悪そうな顔をしていた。久しぶりに実家へ戻って、広いバスルームと言う特権を思う存分満喫してやろうと思っていたのに。いっそ今からバスタブに湯を張って3時間位粘ってやろうかしらん。父のコレクションからいいワインを持ってきてゆっくり味わいながら、アロマキャンドルなんか浮かべたりして。

 フィジカルな駄々を捏ねなかったのは、偏に義兄の愛情を確信しているからだった。例え望む形でなかったとしても、有り難く受け取っておくべきだ。少なくとも、今ここに存在しているだけで十分に価値がある。

「今日は出かけるの止める。夕飯なに?」

「魚だったかな。あいつ、バークと、チャイナタウンに行くって言ってただろ」

「ドタキャンされた。僕がホテルだったら違約金100%取ってる」

 と言う表現が、何だか品のないものに思えたのはエイデンだけだったらしい。レオンは目に見えてほっとし、口元に笑みを浮かべた。彼は父親の運転手兼愛人だった時から、トレントの印象を全く刷新していない。実際、する必要も無いのだろうが。

「チャイナタウンでは今お祭りやってるんだよ。恋愛関連だって。レオもあの営業マネージャーの子と行ってきたら」

「彼女とは付き合って無かったし会社も辞めた」

 うんざりと首を振り、ジーンズのポケットから取り出したスマートフォンに文字を打ち込む。

「中国の祭りだって? 毛沢東の誕生日かな」

「知らない」

 画面を覗き込もうとするエイデンを先導するように居間へ向かう後ろ姿は、すっかりリラックスしているように思えた。実家の門を潜りざま、いきなり風呂を使った異母弟に対する面食らいを、すっかり水に流したらしい。何となくだが、エイデンに占領されなかったら、彼こそが一風呂浴びる予定だったのでは無いだろうか。身につけるポロシャツは、心なしか汗でくたっとして見える──またマスターベーションしていたのかも知れない。

「マオの誕生日に恋人のお祝いなんかする?」

「中国人の考えてる事なんか分かったもんじゃない。何せニンジャがいる国だぜ」

 カウチにすとんと腰を下ろし、「爆竹鳴らしたりするんだろうな」とぽつり、呟いた後に暫く無言が続くのは、きっとエイデンと同じ事を想起したから。幼い義弟がライターでゴミ袋に火を付けたり、猫を池に落とそうとした時は叱っていたレオンも、庭での爆竹遊びは一緒にやってくれた。部屋の真下で派手な音を鳴らされ、よく父はバルコニーまで出て来て怒っていたものだった。

 あの時父が寝ていた相手はまだ、トレントでは無かったはず。愛人の数など多過ぎて一々名前も顔も覚えていない、皆つるっとして艶のないマネキンのような印象のまま通り過ぎていくだけだった。なのにどうして、あの男だけはああも燦然と輝いて見えたのだろう。

「ああ、昔の言い伝えか」

 場違いなほど明るい声は、連綿と深淵へ続いている別離の悲しみを、ふっと上手く切断してくれる。

「要するに、愛し合い過ぎて神に引き裂かれたカウボーイと機織り娘が一年に一度だけ会える日らしい」

「キツいね、一年に一回って」

 カウチの後ろにしゃがみ込んで、背もたれに頬杖を突き、エイデンは唇を尖らせた。

「思うんだけど、中国でも神はきっと童貞だよ。リア充のこと、やっかんでるんだ」

「清く正しく生きましょうって話だろう」

「恋愛は悪くないよ」

 そうきっぱり断ずれば、肉付きの良い肩が微かに強張り、言葉も途端に慎重さを増す。

「遠距離恋愛は一緒に過ごす時間が限られてる分、燃えるからな」

「そうかなあ。僕だったら離れてる間オナニーしまくって、本人と会った時には飽き飽きしてそう」

 実際は一度もトレントをオカズにした事など無いにも関わらず、この文脈だとレオンは明らかに勘違いしただろう。可哀想なことしちゃったな、とさして悪びれもせず思う。

「聖書の教え的には、自涜の方が良くないのかな、多分」

 別にレオを困らせたい訳では無い。なのにこうもぽんぽんと棘のある言葉が口から飛び出すのは、やはりこの話題を突かれた事が、腹に据えかねている。今になってエイデンは、己の感情に気付いた。

 別に僕は父さんみたいに、トレントとアナルセックスはしてない、それどころかお互いのものに触れたことすらない、そう付け足す態とらしさが何となく嫌で、エイデンはうつむいたレオンの項に下目を投げかけた。太い首筋に、性欲と言うよりはもっとずっと原始的な、食欲のようなものを感じる。

 はっきり言って欲求不満だった。これは肉体的な問題ではない。トレントと一緒にいるだけで、しっくり来るものがある。

 きっとこの、まとも過ぎる程まともな義兄に言っても理解して貰えないに違いないが。だからこそ、あれだけ女の子とデートをした後に、アブノーマルな自慰をしたりするのだろう。

 バイブレーションするスマートフォンの液晶へ浮かび上がった名前へ即座に応答するなんて、もっと焦らしてやるべきだと頭では分かっていたのに。けれどエイデンは、耳慣れた少し掠れ気味の声へ喜色も露わな返事を寄越した。曰く、友人は既に隣人へ頼んで窓を修理して貰っていたとか。早いうちに連絡を貰ったからとっとと引き返したとか。

 何にせよ、まともに聞いてはいなかった。「どうした」と慌てた声のレオンにも、更に何か言い掛けたトレントにも返事は寄越さない。部屋を飛び出し階段を駆け下り、玄関のドアを開け放ったその瞬間、門柱を抜けたばかりなインパラのヘッドライトのパッシングが、光の速さで全身を貫いた。

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