タッジオ No.2
第16回 お題「ミッドサマー」「苺」
母はよく、一人息子のことを世界で一番美しい少年だと言った。当時ですらエイデンはそんな甘言を信じていなかったが、例え親の欲目と大袈裟な修辞句に過ぎなくても、悪い気分にならなかったのは確かだった。
世界で一番美しい少年は、成長を止めるよう周囲に望まれるのが常だ。鏡に映る20歳の顔を見て、エイデンは己がすっかり老けてしまったように感じた。昨晩の深酒が堪えているのかもしれない。外ではなく家だから遠慮する必要もなかった。好物のブランデー・ジンジャーを思う存分飲み、そのままトレントのベッドへ潜り込んで、気付けば彼に抱かれて朝になっていた。あの男はエイデンが泥酔すると、必ず抱擁して眠る。悪い気分にはならない。頭痛と胸のむかつきは全く別の由来によるものだった。
世界一美しい少年はどうしようもない大人になる。いや、まだ子供か。自分で自分をどうする事も出来ないのならば。歯磨き粉のミント味は本来爽やかな筈なのに、今は味蕾の上で苦く、責め立てるかの如く差し貫くばかりだった。
トレントがのそのそバスルームに入ってきたのは、口も濯いでついでにリステリンをコップに半分飲んだ後のこと。だから背後から纏わりつかれ、頬にキスされた時も、そこまで惨憺たる有様では無かったはず。
「おい、泣き虫」
寝起きの掠れた声は耳に毒だし、鏡越しに見つめ合う水気の多い青色の瞳の色気と言ったら。触れてくる手へ手を絡める為、コップを洗面台に起きながら、うっかり聞き捨てならない台詞を聞き逃してしまうところだった。
「泣き虫?」
「覚えてないのか、そりゃああれだけ飲んでたらな」
曰く、昨夜の己はスウェーデンへ夏至祭に行きたいと必死に訴えかけていたらしい。全く記憶にないが、確かに悪くない考えだ。でも泣いたと言うことは、トレントが突っぱねたのだろう。しかも相当素気無く。
「どうして駄目なの」
「国外に出るのはノックス先生の許可がいるだろう」
「あ、そっか」
ここのところすっかり、自分が罪人である事をすっかり忘れてしまう──嘘はいけない。最初から、己は無実だとエイデンは確信していた。確かに手段は間違っていたかもしれないが、後ろめたさなどこれっぽっちも感じていなかった。裁判で不利になるから言わなかっただけで。
「貴方に迷惑をかけた?」
「かけたな」
「ごめん」
「あんまり飲むなよ、ストレス溜まってるのか」
「そうかも」
閉じ込められる生活。心地良いものだ、自分で何かを決める必要がないのだから。けれどやはり、時には息苦しさを感じる、のかも、しれない。
「がらっと環境を変えたいと思う時はあるよ。自分じゃ想像出来ない世界に触れてみたい……スウェーデンの夏至って白夜じゃなかったっけ?」
「一日中太陽が沈まない奴か」
「面白そう。ずっと眠らずに遊び歩いていられる……そうだ、確かいちごケーキが名物なんだって」
少しずつ思い出してきた。あの有名なホラー映画みたいな事になったらどうする? そうでなくても北欧ってちょっと不気味なイメージだしね。ヴァイキングがいたのもあの辺りだったはず。
酔って軽くなった口はぺらぺらと繰言を紡ぐ。頭では理解していた。ホラー映画はフィクションであり現実ではない。北欧と言えば世界屈指の福祉国家が集まっている。ヴァイキングは不気味ではなく、怖い存在だ。
怖いのは嫌だった。恐怖から逃げ出すなり撲滅する為には、それを催した理由を根源まで掘り下げなければならない。負の感情と言うものは大抵そうだから仕方ないのだが……そもそも悪い事でなければ消す必要が無い。ずっと浸っていられる。
眠たげな様子で己を抱きしめるトレントは素敵だった。彼の体温を感じていると心が安らぐ。
「いちごケーキが食いたいって?」
まるで蜜月期の恋人のように、エイデンの頬へ何度も口付けながら、鈍い滑舌でそう呟く。
「そんなの、角の店で幾らでも買えるだろう」
「スウェーデンで食べるから良いんだ……お願い、トレ。ノックス先生に頼んでよ」
自分では為す術が無いので、こうして保護者役に頼むしかない。やり遂げられるならば、何をしたっていいと思える。もうこうなれば、その目的が本当に己の望みかなど関係無くなってくるのだ。ただ、成就させると言う行為そのものへ囚われ続け、居ても立ってもいられなくなる。
腹に回された手を指先で撫で、反対の手のひらで触れ合う頬を引き寄せて唇にキスをする。起き抜けに吸っていたらしいポールモールの苦さが、ミント味を薄めてくれた。映画なんかによく出てくる、頭の悪い情婦みたいだなと、脳の片隅で考える。でも悪くない、こう言うことをするのは楽しい。
自らも誘いに乗り、薄く開いた唇からちょっと舌を絡めて見せた癖、けれどトレントはまともに向き合わない。あー、と明らかに覚醒しきっていない唸りの後に続く言葉は「エロい真似ばっかり上手くなりやがって」なのだから。お仕込みが良かったんだよと皮肉の一つでも言ってやりたくなる。
「一日中明るい場所で過ごすのが、どれだけ辛いか、知りもしないくせに」
「トレ、スウェーデンに行ったことあるの」
「あるかよ。だが、明かりって明かりを全部付けっぱなしにした取調室で、売人を閉じ込めて様子を見てたことはある。うとうとしやがったら、すかさず平手打ちして叩き起こして……丸2日と半分で、失禁しながら泣き叫び出して、全部ゲロってやがったよ」
「トレの勤めてたところってKGBだっけ?」
よく訴えられなかったね、と重ねる前に、唇へかぶりつかれる。だらだらとした接吻に気も身体の力も抜けた頃合いを見計らい、トレントは従順になった身体をずるずる引きずるようにして、バスルームから連れ出した。
「休日なんだ、もう少し寝かせてくれや。起きたらケーキでも何でも買ってきてやるから」
「僕、今日は午後から講義だよ」
「なら今夜またここに戻ってきたら良いだろ」
いちごのケーキなんかどこにでも売っている。そもそもエイデンは、そこまであれが好きじゃない。生クリームの上に乗っている果実は、目を惹きつける鮮やかな赤に比して、大抵酸っぱいものだ。
そんなこんなを全部飲み込んで、ありきたりの日常で我慢しておけという事なのだろう。
連れ込まれたベッドの中、スマートフォンのアラームを確認してから、エイデンは「いちごじゃなくてチョコレートケーキにして」と背後の男に囁いた。既にトレントは眠りの中へ足を踏み入れ、願いが聞き届けられたかは怪しいものだった。




