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最後は僕のもの

第32回 お題「大学生」「初デート」

違法薬物の使用について言及していますのでご注意下さい。

 「昨日は何を学んだ?」と尋ねられ、エイデンは少し考えてから答えた。「とくに印象深かったのはヨハンセンの手順の応用方法についてかな。後でもう一回、テキストを読み直して復習しないと」

 違う違う、とトレントはうんざりした顔で手を振ったが、うっかりそのまま言葉を続けてしまう。

「履修登録失敗したかも知れない……そもそも学部が好きじゃないんだ。兄さんの勧めた通り、ロースクールを目指した方がまだ良かったかも」

 返事は益々深まる渋面を少しでもほぐそうと、眉間の皺を揉んでから与えられる。トレントは他人に辟易しているのではない。仕事場のバーから帰宅してすぐに呼びつけられ、女の子を元いた場所へ置いて来て欲しいと言うエイデンのお願いを聞き入れた結果、一睡もしていないのだ。

 完徹なのはエイデンも同じこと。食欲は余りないが、少しでも腹に何か入れて元気を出さねばならない。幸い今日の講義は午後からだった。ルームメイトがセックスフレンドの元から帰って来ていないのを良いことに、悠々と小さなキッチンを占領出来る。

「コーヒー位淹れてよ」

 先に放り込んであったハムのおかげで、テフロンの剥げたフライパンでも卵はくっつかない。もっとも、トレントは焦げ目が付くほどの両面焼きを好むから、少々見た目が悪くなっても文句は言わないだろう。父が生きていた頃、本人が偶に作ってくれた目玉焼きはいつでも黄身が白くなりそうなほどカチカチだった。

「お前、ふざけてんのか?」

「ふざけてない」

「俺が言いたいのは……」

「話したくないだけ」

 ダイニングテーブルと背を向けていることは言い訳にならないだろう。結局エイデンは、白身の端がカリカリと黒ずんだ卵を皿に乗せ、傷だらけの食卓に乗せた。

「フォークはそこの引き出し。知ってるよね」

 結局コーヒーも自分でインスタントの粉末を持ってきて、ティファールのケトルで湯を沸かす。トースターの中でキツネ色を通り越し、軟便みたいな色になっている食パンを指2本で摘み出して、皿の上に放り投げた。

 ようやく席に着いてほっとする。逆に対面のトレントは、益々機嫌を悪くしたようだった。朝の5時15分。窓の向こう、三階分低い位置にある地上では、そろそろ目を覚ましている者だって出始めている。

 結局エイデンに差し出されたフォークを引ったくり、トレントは無言で料理を口へ押し込み始めた。

「トレが話して欲しいなら……」

「話すだけじゃない。俺は学びの成果を聞いてるんだ」

 がちんとステンレスのカトラリーの先端を噛み締めた頑丈な歯の隙間から、忌々しげな唸りが漏れる。

「この俺の平穏を邪魔したんだからな」

「だって彼女」

 口籠もりはトーストで誤魔化したつもり。まだ内側は柔らかい厚切りの生地が、唾液と言葉を吸い取る。

「アプリで話してた時は普通だったんだけど、会ってみたらめちゃくちゃぶっ飛んでて。部屋でソファに座っていきなりダスター(PCP入りマリファナ)なんかやり出したんだよ」

「アカウントの写真とかチャットから分かりそうなもんだけどな」

「本当、品行方正にしか見えなかった」

 往生際も悪く、もぐもぐと呟いているうちに、トレントはもうハムを食べ終わり、卵も殆ど皿から消えている。一口か二口、フォークで押し切った卵を口へ押し込んでから、結局エイデンは皿を相手に向かって押し出した。

「いらない……食べて」

「飯の代わりにウイスキーでカロリー摂るとか言うつもりじゃ無いだろうな」

「飲みたくないし、食べたくない」

 まだ鼻腔の奥へ、マリファナの臭いが残っている気がする。大麻規制派ではない、偶に嗜むこともある程だが、時々あの乾燥した植物特有の甘ったるさで、胸が異様にムカつくことがあるのだ。

 ここにコーヒーを飲んだら胃痙攣を起こすかも知れないが、体を温めたくて無理やり流し込む。薄くなった湯気越しに、遠慮会釈なく皿へ手を伸ばすトレントを見遣りながら、エイデンは乾いた舌を緩慢に動かした。

「今日の学び? 会ったその日に相手を部屋へ連れ込まない。でもトレだって、ワンナイトしたりしないの」

「俺はいい、お前は駄目だ。人を見る目が無い。大学では教えてくれないのか」

 皮肉も露わに嘯くトレントが、何故警察学校に入学したかと言えば、高等教育を受ける程の経済的余裕が実家になかったからだと、以前本人から聞いたことがある。じゃあ軍隊行けば良かったのに、と返せば、お前は本当に人の心が無いなと笑われた。今では勿論、彼が正しいと分かっているし、侮辱した事を申し訳なく思っている──軍隊は、本物の勇者か向こう見ずか、致命的に困窮している人間しか行かない場所だ。

「コミュニケーション学って言うのかな? もしかしたらあるかも知れない」

「ニュースキンのディストリビューターになるか、証券会社でペニーストックをブーマーへ売り捌く為の授業か」

「健康食品なんか興味ないよ。そんなに言うなら、トレが教えてくれればいいのに」

 剣呑な上目の充血が、妙にパッションへ満ち溢れた物のように感じる。一瞬ハッとなってしまったから、そのまま無防備に「デートの作法について」と重ねてしまった。

「よく考えたら僕、継続して誰かと付き合った事が無いかも」

「まだ若いんだし、別に遊んでも良いんじゃないか」

 まるで硬く焼き過ぎた卵が喉へ詰まったかのように、トレントの声は硬く、早朝の空気へぎこちなく響く。

「遊ぶなとは言ってない。慎重になれと言ってる」

「遊びなんて嫌だよ。僕いつでも真剣だ……トレならどうしてた?」

 トレントはコーヒーをマグカップに半分程、一息に飲み下してから答えを口にした。渋々と。そんなに嫌なら口にしなくても良いのに……そもそも彼に、そんなデリカシーがあるなんて思ってもいなかった。

「グラスをやり始める前にベッドへ引っ張っていく」

「グラス?」

「最近はウィードとか言うのか?」

「ああ……意味が分からないってことじゃなかったんだ。警察官っぽいって思ったから。それも凄い中年の制服警察官」

 汚職をきっかけに辞めたと聞いているが、罷免されるまではしっかり職務を遂行していたのだろう。そんな古臭い言葉を使う先輩の言う事だって、ちゃんと脳へ蓄えておくような。

「でも、ヤリモクだなんて嫌だな」

「お前だって穴に突っ込みたかった事には変わりないだろうが」

「それは確かにそう」

 会話が滑らかになって来たら、食欲も少し回復する。ハムを一枚取り戻せば皿が戻されそうになったので、首を振って固辞した。

「誠意を見せれば問題無いかなって……それが難しいんだけど」

「次の日朝飯でも食わせてから帰してやったら、大抵文句は言われないさ」

 それって今みたいに? とは、恐らくほぼ同時に思ったのだろう。一瞬で停止したお喋りの後の沈黙はまるで永遠のように感じる。

 でも、それが目指してる物じゃないのだろうか。永遠と言うのが。

 何故か赤面し、コーヒーへと伏せた目では捉えられない。だがトレントが自らと同じく、気まずい思いをしていると、エイデンは強く確信していた。不思議と嫌悪を感じなかったのは……

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