血が騒いだら旗をあげろ
第15回 お題「雨宿り」「虹」
差別的な暴力描写がありますのでご注意下さい。
95号線沿いのスーパーに併設されたせせこましい駐車場で、女性が男に小突き回されていた。女性と言う呼称を使っても問題ないはずだ。ホルモン治療を行なっている最中なのか、上がる悲鳴は若干野太い、声音を作る余裕も無いのだろう。
鼠色が濃くなる空模様など男は気にもかけない。ぽつぽつと天からの滴で黒ずみ始めたアスファルトへ、無力な玩具を突き倒す。殴る蹴るの暴行は雨足と同じく激しくなるばかり。彼女が抱えていた小さなシークインのバッグは投げ出されて緩いがまぐちが開き、財布や化粧品が散らばる。短いスカートが捲れ上がり、露わになった長い脚がじたばたともがいていた。
「あれ何とかしてやりなよ、あんまりだ」
今夜の夕食になる冷凍ピザと、野菜スープの材料が入った保冷バッグを抱え、エイデンは傍らのトレントに訴えた。濡れたくないから車を回してよ、これ位走れば良いだろ。交わしていた他愛無いやり取りを中断し、店の軒下から身を乗り出すような青年の表情は、本気の懸念に染まっていた。
「元警官なんだから……それにしても、何でみんな無視してるの」
「娼婦だからだろう」
煙草を一本吸い終わるまでの約10分足らず、和やかな押し問答を繰り広げている間に、少なくとも4組の買い物客が駐車場を往来した。誰もが遠回りして無視している。視線を投げかけようともしない。
会話を小耳に挟んで得た情報だと、値段交渉の最中、男が相手の性別を知った事がトラブルの発端らしい。まだ彼女にペニスがついていると言う、知りたくない情報まで知ってしまった。竿付きなら値段を下げろと言う理屈だ。
そんな身体でそんな職業をしているのだから、痛い目を見るのも仕方がないなどとは思わない。ただ興味がないだけだった。過去職による経験も含め、己が暴力へ対し非常に鈍感であると、トレントは勿論自覚していた。
一方、猫殺しの人殺しであるにも関わらず、エイデンは乱暴な事へ遭遇すると人並みの反応をする事が多い。今も一見、正義の味方みたいな物言いをして──同時に、踏み出すことも出来はしない。当然だ。丸められた身体を広げるよう、鳩尾へ爪先が入る勢いは激しいし、クソ野郎の顔は全く狂気という他ない。己の力を行使する事へすっかり酔いしれていた。
「そんなに気になるなら警備員呼んでくるか911に通報しろよ」
「止められないの? 貴方の腕っ節じゃ厳しい?」
「まあ、多少は面倒な事になるだろうな」
弱い相手に対して居丈高になっているだけ。素人で、若くもなければ中年でもなく、普段は真面目に工場でねじ回しでもしていそうな平凡極まりない男だ。その気になれば幾らでも。
だが振り回される拳のとばっちりを受け、青痣や瘤を作る事だけが、トラブルではない。
「自分で行ってこい」
「僕じゃ無理だよ」
首を振り、エイデンは携えていたバッグをぎゅっと胸に抱きかかえた。
「あれが僕だったら、相手が一生もののトラウマになる位ぶちのめしてくれるでしょう」
「でもお前じゃない」
「いつそうなるか分からない。ゲイだからって理由で川に投げ込まれて死んだ人がいる位だし」
トレントが思わず隣を見遣ったのは、この青年が初めて己を、ありふれたマイノリティだと認めたからだった。これまで、トレント自身強く意識した事がなかった。特に昔は、男性ばかりでなく女性とデートしている時もあったし、そもそも信じられなかったのだ。異でも同でも構わないが、彼が「性愛者」と言う括りに己を収めているなんて。
淫蕩の種子は間違いなくその身に埋め込まれ、芽吹くどころか時に花咲いてみせる程だ。けれどエイデンは基本的に、気味が悪い程性の匂いを感じさせない。本人も、そこまで積極的にモーションを掛けて来ることは滅多になかった。
こう言うのを何と言うんだったか。あの七色の旗の中に含まれている性的指向──また「性的」か。おかしな話だ。
まあどちらにしても、己はこいつがエロかろうがそうでなかろうが、簡単に欲情出来るだろう。相手の意思を確認しましょうとは、警察官時代にコンプライアンス研修を受けたし、中学生のガキどもを相手に講義したりしてみせたものだったが。例え持ち帰った奴が紅茶を欲しがった後に眠ってしまっても、いびきを掻いているのに無理矢理熱々のダージリンティーを飲ませてはいけませんと言うアレだ。
幸いエイデンは眠っていないし、眠るとしてもきっと横たわる前に、煩わしげな微笑みを浮かべて言うだろう。「僕は構わないから好きにして」
「同情したか。とんだお笑い草だな。共感力ってものを、分娩台の上で胎盤と一緒に捨てちまったようなお前が」
「貧乏で身体を売らなきゃならないトランスジェンダーだなんて、誰でも哀れに思うはずだよ」
「カトリックの癖に」
「もういい」
むっと湿った空気の流れが一瞬で変わった。いや、予兆はとっくにあったのだ。ほんの時たまだが、天気が崩れた日、エイデンは理由もなくピリピリする事がある。親父の方はもっと顕著だったから、すっかり流す癖がついてしまっていた。
バッグをトレントに押し付け、ずんずんと軒下から歩み出そうとする横顔は、表情筋と言う表情筋が硬直してしまったかのようだった。咄嗟に腕を掴んだ時、二の腕から感じる反発の力みもまた強い。
バッグを投げつけるように返して、トレントは暴行現場に近付いた。二言三言、もう抵抗もやめた頭を踏みつけようとしていたクソ野郎と話し、相手のいきり立ちが一層高まった直後、鼻面にまず固めた拳を一発、抑えようとする前に腹へも。
そのまま戻ろうとしたら「彼女を濡れないところに連れて行ってあげて」と間髪入れずに叫ばれたので、仕方ないから手を貸して立ち上がらせた。ガラスの自動ドア一枚を隔てた場所、ショッピングカートの周りで見て見ぬふりをしていた警備員に引き渡す。彼女は切れた口でお礼の言葉を言っていたようだったが、無視して踵を返した。とにかく面倒だったし、少しむかついてすらいた。
幾ら施したのが善行とは言え、エイデンを伴ってかつての同僚かもしれない官憲の犬に事情聴取を受けるのはごめんだった。奴らはまともな対応をしないし、恐らく彼女も告訴しない。何ならおまわりを嫌がる事なら、トレントはよく知っていた。
結局バッグを頭へ掲げるようにしながらインパラへと向かうエイデンに「あれを仲裁するつもりだったのか」と尋ねた声はぶっきらぼうであることを隠さなかった。幾ら鈍いこいつでも理解出来るだろう。だがエイデンは、これまたブスッとした顔で「バックで轢いてやるつもりだった」と宣う。
「被害者ごとか」
「僕は早く帰りたかったんだ。人の車の前でトラブルを起こさないで欲しい」
照れ隠しではない。本音半分、嘘半分。義憤がどちらに該当するか……深く考えるのも馬鹿らしい。確かに早く帰りたかった。たった数分で、もうシャツの色が変わるほど濡れてしまったのだから。




