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バンザイを埋める

第55回 お題「お花見」「夜桜」

 考える事は皆同じ。明朝のオープニング・セレモニーから始まる桜祭りの賑わいを避けようと、駆け込みで見物に来た客達による混雑。夜更けでも人の多いタイダル・ベースンの周りをそぞろ歩き、エイデンは月と、放射能でも含んだかの如きほの白さに輝く桜へ目を向けた。

「昔の偉い作家が言ってたよ。桜祭りはだらしないけれど神々しいものだって」

「へえ」

「多分ゴア・ヴィダルか誰かだったかな」

 聞かれてもいないのに意気揚々とそう知識を開陳する彼の出立ちは、少なくともだらしなくはない。いつも通りだ。常から金持ちらしく、最低限の身だしなみを整えている青年だった。

 以前そう言えば、本当の大富豪はそうじゃ無いよ、と笑って返された事がある。休日はさ、プーマのジャージなんか着てる。髪の毛も寝癖がついたまま、目脂のついた瞼をしょぼつかせて、ペントハウスまで配達された宅配ピザを受け取るんだ。それでも決して貧乏人には見えないんだから、不思議だよね。

 少なくともジーンズにトレーナーを羽織ったトレントの横で、薄手のステンカラーコートをひらめかせるエイデンは金持ちに見えたし、実際にそうなのだ。

 ビューティフル・ピープルは遠慮しない。夜の帳を破る事が後ろめたいと言わんばかりに、多少は潜められている周囲のざわめきなど、エイデンが意に介す事はなかった。くすくす笑いを零したり、落ち着きなくごつごつした木肌に触れてみたりするのは、来る前に酔い覚ましで飲んだバドワイザーのせいかも知れない。或いは昼一番にチェックインして以来、一歩もホテルの部屋を出ず、トレントに体を触られまくっていた興奮が尾を引いているのかも。

 今は花が咲き溢れる時であり、射精するタイミングではない。普段と違う環境だから、うっかり服を脱がして最後まで行ってしまいそうになった。

 だがブランデー・サワーですっかりほろ酔いのエイデンはみっともない鼻声で愛を囁きつつ、首に腕を回してくるばかり。どこにキスしても擽ったげに笑っていた上に、途中で眠ってしまう始末だった。目覚めたらぐずる事も覚悟していたが、幸いルームサービスで運ばれてきた一瓶のせいでご機嫌になり、無事当初の目的を果たす事ができる──何故己が、こんなにも職務の遂行へ気を揉む必要があるのだろう。この桜見物を提案したのは、そもそもエイデンなのに!

 今のエイデンは寧ろ普段よりも明晰な程で、ひらひらと忙しなく舞い落ちてきた薄い花びらを掴んでみせすらする。

「ここの桜は植えられた時、『日本の桜』って愛称だったんだ。でも80年前、急にみんな『東洋の桜』って呼び方を変えた」

「あんまりはしゃぐなよ」

 薄暗がりと人の流れの匿名性を良いことに、ぐいと肩を抱き寄せても、エイデンは抵抗しなかった。やはりその体温が子供のように高いと、外套越しにも感じ取る。肌寒い位の夜気にはちょうど良い。

「最近はどっちの名前を使うんだろう。もう戦争はやってないから戻ったのかな……もしもこの花がロシアから送られた向日葵なら、今頃赤い向日葵なんて呼び名に変わってたのかも」

 握り込めばきっと常よりぬくい手のひらの中、一ひらは簡単に萎れてしまう。薄桃色はぐじゅりと濡れたような黒ずみへ変化を遂げていた。

 トレントが思い出したのは、部屋を出る前にエイデンが履き替えていた股間のところが濃い色に染まったチノパンだった──うっかりグラスから零されたブランデーが、狭苦しいツインの空気をむっと濃いものに変える。だらしない欲情の匂い。

 あの時、芳醇なナポレオンが染みた固い布を口に含んで啜ってやれば、隣の青年はどんな反応を見せただろう。

 酒臭い汗がじわりと滲むこめかみに顎を乗せ、トレントは開かれたままな青年の手のひらを指でなぞった。子供っぽいむくむくした造作に、生臭さすら感じられる様々な湿り気。エイデンが微かに身を震わせたのを、触れ合う肩から知る。青年は明らかに、その事を恥じた。うっすらと染まった顔が背けられ、漣一つ立てない湖へと逸される。

「お前が親父さんを撃ち殺してなかったら、今頃俺達の間柄は、世間でどう呼ばれてただろうな」

 特に皮肉でも何でもなく、ただ安らぎに身を任せるまま、トレントは呟いた。そっぽを向いたエイデンの頬が益々赤らみ、肉体に刹那の硬直が走る。

「父さんが生きてた頃は、そもそもどう言う関係だったって言うの」

「世間知らずな我儘息子と、その親父の飼い犬ってところか」

「じゃ、今は」

 トレントは笑みを深め、闇よりも濃い色をした湖面に視線を流した。

「答えが欲しいなら簡単さ」

 手のひらに立てた指先は深爪のせいで碌に痛みを与えないだろう。

「お前がただ一言、言えばいいんだ」

「僕言ってるよ、ずっとずっと」

「駄目だな、落第点」

 花びらは捏ね回されて皺くちゃになり、汚らしい見てくれと化している。枝についている美しい姿など、もはや想像もつかない。

 すっかりむくれてしまったエイデンは、けれど今更離れて行くのも面倒になったのだろう。大人しくトレントの腕の中へ収まったまま、ぶつぶつと言葉を噛む。

「ああ? なんだって」

「そう言うトレこそ卑怯だ、何も言わないじゃないか」

「お前のこと愛してるよ」

「落第点」

 手から汚れを払い落とし、エイデンは肩を竦めた。自然と一層寄り添う形になった身体には、隅々まで弛緩が行き渡っている。

「もうこのやり取り、疲れた」

 褐色の肌は月光で青ずんで見える程。この青年当の本人が殺した男の死体を思い出させた。容姿は全く似ていないにも関わらず。

 桜がある瞬間突然散ってしまうのと同じで、エイデンも、その父親も、ただただ今を生きている。片方を殺して生き残った奴に見張りが必要だと周囲が感じたのは、恐れたのだろう。なんの前触れもなく、退屈しのぎで己の命を絶ってしまいかねないと。或いはもっと酷い、一族へ更なる迷惑を被らせるような真似をしでかすのではないかと。

 けれど残念ながら、それが若さというものだ。美しくて儚くて、一度咲いてしまえば後はなるようにしかならない。かく言う自らだって、己の逸物を雇い主にくれてやっていた時は、何も考えずただ日々を消費していた。

 それはきっと、今も同じ。この青年を更に美しくしてやる事は出来る、それだけだ。

「そんな急いで結論を出さなくてもいいさ」

「分かったよ。じゃあせめてキスして」

「今か」

「うん」

「お前は欲がないな」

 自分から口にしておいた癖、明らかに消極的な身体を引きずるようにして木陰へ連れて行く。顎を掴んだ時、指に残る破壊された植物の匂いを嗅ぎ取ったのだろう。エイデンは露骨に眉を顰めた。

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