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ファントマ

第54回 お題「吐息」「ゼロ距離」

登場人物が第三者と関係を持っていることを示唆する描写、並びに不倫描写があります、ご注意下さい。

 展覧会の会場へ入る前、教授に薔薇を一輪渡された。花弁は表がオレンジ、裏が黄色。大輪の花は、ちょんと指先で触れただけで簡単に散ってしまいそうなほど開いている。棘も硬いし、もう枯れかけているのかと思ったが、こう言う品種なのだと言う。近頃庭いじりなんて、妻と共通の趣味を持った教授が言うのだから間違いないのだろう。

「ルイ・ド・フュネスって品種なんだって」

 あっという間に春を飛び越してしまいそうなこの陽気だ。このまま摘んでいるとすぐ萎れてしまうに違いない。何だか泣きそうになった。エイデンは出来る限り呼気を吐き出さないようそっと、隣を歩くトレントへ言った。

「僕、誰かに花を貰ったのなんて初めてだよ」

 この男の家に、花瓶なんて文化的なものは存在しないだろう。もうこの際、ビールの瓶でも何でも構わない。

 花越しに上目遣いを投げつければ、あからさまに白けた横目が返される。トレントはわざとゆっくり、ガレージから家の玄関まで向かっていた。

「お前もいよいよ、親父に似てファグ(カマ野郎)な仕草が板について来たな」

 彼がこの侮辱的な表現を用いる時、ドイツオペラにかぶれていた父がバスーンの事をファゴットと呼んでいたのを思い出す。そこに必ず笑いが付随していたのは自虐だったのか、それとも卑猥なことを考えていたのだろうか。くすくす肩を震わせるものだから、振動が背中から伝わって、少しは気も晴れたものだった──5歳やそこらの幼児に『タンホイザー』なんか退屈でしかなかった。けれど膝の上に座らされていたから、テレビのリモコンを取り上げ、アニメにチャンネルを切り替えることも出来ない。

 滅多にない親子の親密な交流から連想される感情が「うんざりさせられる」だなんて。愛し合っている人間同士の間に存在するものとして、余りも余りな話ではないか。

 トレントはもう鍵を探すふりすらせず、首を伸ばして薔薇へ顔を近付ける。花芯に触れそうなほど鼻が寄せられ、辛うじて芳香を嗅ぎ取ることが出来たのだろう。自らも受け取った時に同じ感想を抱いたにも関わらず、エイデンは憤りも露わに、薄笑いの張り付いた顔を押し退けた

「そう言う品種なんだよ、匂いが薄いんだ」

「枯れかけてるんじゃないのか」

「違う」

 ここまで己の行動をそっくりなぞらなくても良いのに。次は「珍しい色ですね」とでも宣うか。ハイブリッドと言うんだよ、と教授がまさしく学識者らしい闊達とした物言いで教えてくれた記憶が蘇る。

 乱暴に遠ざけたせいで茎がぶらぶらと揺れ、重い花弁が一枚はらりと落ちる。更にまた一枚舞うのは、ああっ、と思わず上げた嘆息のせいだった。完璧さが損なわれる。魅力は半減した。残りの半分へしがみつくよう胸元に注意深く引き寄せ、身を捩って狼藉者へ背を向ける。トレントは益々面白がり、エイデンへ覆い被さるようにして覗き込んだ。

 なあ、と低められた声を乗せる息が熱っぽいのは、エイデンを待っている間、店で煽っていたバーボンのせいだろう。酔うほど飲んでいるはずも無いのに、高められた温度に耳朶を擽られればぞくぞくする。

「何で花なんか貰ったんだ」

「彼は優しいから」

「嘘だな」

 この前、教授のお供をして誰かの遺品のオークションに連れて行かれた時。勢いよく振り下ろされる木槌の音すら貫き通す勢いで、こちらを食い入るその中年男について、教授はこともなく説明した。君に興味を持っている人間は少なくないぞ。何せこんなにも素晴らしいトロフィーなんだから。

 そんな言い方されると不快ですとその場で伝えたのを、教授は曲解した。或いは無視したと言った方が正しいかも知れない。「彼とは話をつけたよ」捧げた花の向こうに見る笑顔はさながら爽やかな一陣の風。気取り過ぎな薔薇を散らしてしまわなかったのが奇跡だった。

 まるで温室から運ばれて、人の間で受け渡しされる花だと、エイデンは自惚れなど一切考えず、己をそう認じた。ならば今、手にしているものに例えるのが丁度いい。不恰好に崩れてしまったくらいの花に。

 ぐっと茎を掴む手に力を入れた瞬間、手のひらへ感じた痛みに、思わず圧を緩め、ようとした。さながら見越していたかのように、するりと男の無骨な指が指に絡み、握りしめられ、叶わない。

「お前は可哀想な奴だ」

 直接脳へと吹き込まれるかのような声は、簡単に脳を支配する。皮膚が破れ、血が滲む感覚にエイデンが顔を顰めれば顰めるほど、その音色は愉悦で震える。悪夢的なデジャヴ。ひたりと背中に寄せられた体温の心地よさは、地獄へ向かう長い道のりのスタート地点だった。

「こんなものくれてやったら喜ぶような、馬鹿扱いされて」

「人間なら」

 微かに反る花弁の縁に沿って、すっかり挫けた声がふうっと滑る。

「まともな人間なら……喜ぶんじゃないかな」

「まともなお前を、教授は愛すもんか」

 誰もお前を愛さない。適切な方法では決して。

 そう断じられて、抗うべきなのに、気力はもう根こそぎにされていた。

「トレならちゃんと愛してくれる?」

 重ねたスプーンのように抱きしめられ、エイデンは茫洋と尋ねた。身体が熱い。気温のせいだけではなく、全身に染み渡る火の息のおかげで。

「どんな僕でも」

「ああ。でも、お前は何になりたいんだ?」

 それが分かれば苦労しない。微かに首を傾け、背後の頬に頬を擦り寄せながら、エイデンは囁いた。

「トレが決めてよ」

 花すら壊すことの出来ない小さな小さな訴えを、トレントは歪に拡大した。手の痛みが一層強くなり、ぼきりと細い茎が折れる。彼がぱっと解放したのへ操られるかの如く、エイデンも拳を開いた。生気を失った花が伸びた芝生に落ちる。間髪入れずに踏み潰す革靴の勢いが、トレントの不快感を表明しているようで、嬉しかった。

 嬉しかった、だって? 余りに酷い。同時に、なんて幸せなんだろう。感情の乖離が一切無いと言うことは。己が浮かべた、半べそから辛うじて復活したような笑みと対極の位置にある、トレントの仏頂面。硬い表情筋を少しでも解したくて、エイデンは彼が好む媚びた仕草を精一杯駆使し、がっしりした肉体へ一層身を預けた。

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