カポネならば温室に隠す
第49回 お題「バレンタインデー」「チョコレート」
汚物表現、暴力表現がありますのでご注意下さい?
信仰を捨てなかった為に首を吊られた男が聖人扱いされるようになったのは、そいつの信じる教義が多数派の者となったからだ。基本的に、異端は罰せられる。
常ならば車で待っているのだが、到着を知らせるテキストが未読無視ならば、しつこく鳴らすコールへも一向に応答がない。舌打ちしたままの苦々しい表情を、こぎれいな学生マンションのインターホンへ突きつければ、予想通りと言うか「あいつまだ寝てるんですよ。と言うかさっき潰れました」と聞き覚えのある声が返ってくる。
部屋に通され思わす呆気に取られたのは、部屋中を埋め尽くす装飾が余りに低脳を極め尽くしていたからだった。ハートを象ったアルミの風船は軽く30個を超えている。パーティーグッズ・ショップで買ったらしいぺらぺらしたピンク色の横断幕、色とりどりの紙テープ、どれにもこれにもお決まりの文句が書かれている。
自称吸血鬼のダグは、色とりどりのカナッペを乗せた盆を片手に手招きし、こちらですと示す。
「エスペラント同好会のメンバーとパーティーするんですよ」
悠然とした足取りでカウチまで案内する途中、3回は風船を跨ぎ超える。トレントも同じ事を強要させられたが、踏み割っやりたいと言う衝動を押し殺すのはなかなか骨が折れた。いっそのこと1個くらい破裂させてやっても良かったのかも知れない。
「エイデンは貴方と過ごすって前々から言っていたので、参加を免除しましたが」
「バレンタイデーに血を吸うたあ物騒だな」
「あ、彼から聞いてるんですか?」
歯を見せる笑顔はこの時候でなくとも寒気を催す爽やかさで、悪びれた様子は全くない。
「それは夜中のお楽しみ。双方の合意があれば、基本的には何をしても違法じゃないと俺は思います……元警察官の貴方からすれば、不快な話ですか?」
「いいや。俺はもう仕事を辞めたんでね。他人のことをいちいち気にかける必要が?」
綺麗にされた躁的な室内で、唯一汚らしい抑鬱状態へ陥っているのがエイデンだった。気配が近付いても、カウチヘ俯せに潰れたきりぴくりとも動かない。それでも床へと垂れた手は茶色く汚れたグラスを緩く握りしめている。
「朝からアレキサンダーを、て言うかブランデーにハーシーのチョコシロップを垂らしたドリンクを、多分7、8杯は飲んでる。貴方が来るから止めてとけよって、一応言ったんですけどね」
「心配しなくてもあんたを責めちゃいないさ」
寧ろ万が一吐瀉物で窒息しないように、クッションを積み上げ多少顔を横向けにしてくれていた様子だし、床には新聞紙を引いた洗面器も。
トレントが肩を掴んで揺さぶると、ぐうっと嫌な音を立てて喉から鼻へ息が抜け、もがくような身じろぎが拒絶を示す。
「やめて……」
「起きろ、行くぞ」
最初は軽く小刻みに叩いているだけだった頬は、リズムの間隔が大きくなるにつれ力強く張られる。ぱしんとかなり勢いの良い音が鳴るようになった頃、遂にエイデンはのろのろと腕を回して、頭上に見えたトレントの首へしがみついた。「そんな乱暴に」の後へ続けられようとしたダグの言葉は、結局立ち消えになる。
抱きつくと言っても恋人が甘えるのではなく、駄々っ子がむずかっている仕草に他ならなかった。
「朝来るって言ったのに……」
「言ってない」
「言ったってば……」
回らぬ呂律と共に吐き出した吐息はアルコール特有の饐えた甘酸っぱさと、それに純粋な甘さも。
「怖かったよ、トレ。バレンタインデーなのに、ダグは愛しちゃ駄目だって言うんだ。血と殺戮の日にする気なんだよ……ピアッサーで女の子の乳首に穴を開けてそこから血を飲むって……ずっと『我が街シカゴ』を歌ってるんだ」
「歌ってない、ラジオから流れてたんだろう」
処置なしと言わんばかりに目配せしてみせるダグを無視し、トレントはしがみつて鼻先を首筋へ擦り付けてくるエイデンを力任せに引き剥がした。
「いいか、お前は人に迷惑を掛けてるんだ。医者の指示を守らず酔いどれて、ルームメイトに世話を焼かせてる。くだらない御託を抜かして、俺に我慢させてる。良く聞け、俺が我慢してやってるんだぞ。このまま一晩中ここで泣き言ほざくのがお前のやりたいことか?」
「やりたくないぃ」
アルコールで粘膜が充血し、鼻が詰まっているせいか、訴えは殆ど泣いているかのような響きを帯びる。頑是なく首を振り続けるから、無理矢理顎を掴んでもう一度、ばしんとびんたを食らわせてから、トレントは脱力した身体を突き放した。
「ならとっとと出る準備しろ」
もうしばらく両腕で目元を覆い、むにゃむにゃと何か言葉を口の中で噛んでいたが、結局エイデンは身をよろめき起こした。立ち上がってバスルームへ向かおうとすれ違いざま「吐く、素面になってくるから待って」とぼそぼそ呟いたのは、当てつけの意味を込めているのだろう。
宣伝通りげえげえと聞き苦しい音が聞こえている間、ダグはテーブルにカナッペを並べ、クッションや洗面器を片付けと、エイデンがいた痕跡を手際良く潰していく。
「エイデンがDVを受けてるって言ってましたけど」
「知ってるだろう。あいつは極度の虚言癖の持ち主だ」
「彼も貴方についてそう言ってましたよ」
一つ、ホワイトチョコレートに苺がちょこんと乗せられたクラッカーをつまみ上げ、口に放り込んでから、ダグはしばらく天を仰いで考え込んでいた。
「俺が見た感じでは、どっちもどっちって気はしますけどね。貴方達、2人ともはみ出しものでしょう」
「あんた、発達障害の診断を受けたことは?」
「ありません。怒りますよ、もう」
笑いながら、「とにかく、彼を殴らないで下さい。友人として心配です」とつらつら続ける滑らかさからして、普段から言われ慣れているのではないかと思う。なるほど、エイデンの友人として彼は適任だろう。少なくとも家族より長い時間を共有し、気の置けない仲として上手く過ごしている。
何度も偏執的に便器の水を流した後、覚束ない足取りで戻ってきたエイデンは素面から程遠い。倒れかかるようにして再び抱きついてくる身体を、トレントは拒絶しなかった。寧ろ逃げようとしたのはエイデンだった。胸をどんと叩いても絡みついてくる舌へ暴かれる、胃液の苦さと、消化しきれなかったチョコシロップとブランデーの甘さ。ダグから見えない角度で、鼻の下へちらりと舌を這わした時、味わった塩辛さが丁度いいと思える。「もう十分ごちそうさま、胸焼けする」と手を振るダグは、まだ笑っていた。
車に乗ってもまだエイデンは不機嫌で、「リステリンも使ってないのに」と文句たらたら。どうやら他人の前で醜態を晒したこと自体は全く堪えていないらしい。「頭が痛いよ。少し寝てから、夕飯食べに行こう……トレの好きな角の中華料理屋でいい。今日はバレンタインデーだから」
「何でバレンタインに中華なんだよ」
「トレが好きだからって言ってるでしょ」
白目にぽつぽつと浮いている血管の赤色が、ストロベリー・チョコレートに練り込まれた果肉を思わせる。思い切り舐め回してやりたい。春巻きよりも余程そそられる食欲は、ベッドの上で嫌がって暴れるだろうエイデンの様子を想像したら、ますます膨らんだ。




