行くと来るの境界線
第43回 お題「年越し」「新しい朝」
日付が変わる10分前、1人でベッドに寝そべっていた。室温はさながら冷凍庫、暖房の調子が悪いので端からスイッチは入れていなかった。それでも、毛布と羽毛の掛け布団で完全防備していれば、少なくともベッドは十分温かい。心ほぐれる平穏の時。
今年も無事に過ごすことが出来た。最も反社会的な行いといえば、春先にスピード違反でかつての同僚から切符を切られた事くらいのもの。酒場で管を巻く阿呆を殴り倒し、酒もそこそこ飲み、禁煙は出来なかったけれど、実のところ別にしたいと思っていなかった。
来年もこうやって恙ない日々を送ることが出来れば良い。さながら地獄で煮えたぎる熱湯の池の1フィート上で綱渡りをしているような、薄暗い恙無さ。確かに綱は不安定なのかも知れないが、トレントは方法を熟知していたし、大体落ちたところで何だと言うのだ。ぼちゃん、となったところの水深が膝丈にも満たない事を、これまでの経験から彼は理解していた。あの程度の熱なんて、その内慣れてしまうだろうことも。
もっとも、適応すると言うことが未だ理解出来ていないあのお坊ちゃんにとって、どん底と言う場所は少し耐え辛いかも知れないが。
ノックの返事も待たずに寝室へ駆け込んできたエイデンは、夜目にも分かる程大袈裟にぶるりと身を震わせた。当たり前だ、暗がりに白く浮かび上がるパーカーは薄手だし、剥き出しの脚には靴下一つ履いていない。
軽い足音は、すぐさまマットレスの軋みに取って代わる。「寒い、寒い」と譫言のように繰り返しながら毛布の中に滑り込んできた奴のせいで、こちらまで首筋に鳥肌が立ちそうだった。
「これ俺のだろう」
「借りた。パジャマ洗濯してなかったから」
嘘つけ、とトレントは内心呟いた。あんまり頻繁に泊まり込むものだから、エイデンの私物はこの家に一式用意してある。大体、汚れものを身につけるのが嫌なら、何故代替品として、ここ数日トレントが身につけていた衣服を選んだのか。
考えなしの箱入り息子。本当ならば、もう少しあの格好を見せびらかす予定だったに違いない。けれどスケートリンクじみたフローリングを全く想定していなかった。事実、仰向けになったトレントの腹に跨った時、ジャージのズボンを蹴り下げるように跳ねた爪先は、せっかく風呂で蓄えた熱をかなり失っていた。
大胆な真似を見せた癖、そのままの流れでトレントが腰を抱いて引き寄せれば、エイデンは一瞬身を強張らせた。裸の胸へ遠慮がちに置かれた指先が、軽く素肌を掻く。
「お前からしてくれよ」
声を低め囁いた時、鼻先を擦り付けた耳元からはシャンプーの匂い。30を超えた男のベッドへ突如混ざり込む、甘ったるさに、悪い気はしない、予想外だったが。これはじっと相手の顔を見下ろした後、躊躇しながらも薄く開いた唇を重ねる初心な従順さが加点対象となっているのかも知れない。
ちゅ、ちゅ、と触れ合うだけのキスは苛立ちではなく、もっと心の底が温かくなるような感覚を産む。このポジティブな感情を発露とした凶暴性が胸の奥を引き裂き、噴き上がりそうになるのを、トレントは己に許すべきかどうか考えていた。ぺろりと口の中を舐めてやる、これ位ではもはやエイデンも驚かない。寧ろ舌を差し出し、ちろちろと遠慮がちに絡めてくる。腰から手を滑らせ、パーカーの裾から手を潜り込ませる。細い腰がびくっと跳ねるのもお構いなしに、ぎゅっと両手で掴んだ尻は、きっちり下着を履いていた。ありふれた、普段穿きのボクサーショーツ。右側の履き口のゴムが少しよれていて、簡単に指先を潜り込ませる事が出来る。その気になれば、の話だが。
ふは、と笑い声を立てれば、屈み込んでいた顔が驚いたように跳ね退く。
「トレ!」
「悪い悪い」
結局、まだ微かに艶めくような湿り気を残した髪を撫でて、全てを宥めてしまう。冷めてしまったのはエイデンも同じらしい。「あーあ」と子供っぽい嘆息が、やんわりした熱の篭る布団の内側に蔓延する。
「来年は、少し大人っぽくなろうと思ったのに」
「まだ今年だろう」
スマートフォンは確認しなかったが、トレントは確信を持って答えた。
「今から何をやったところで、去年からの年越しになる」
「トレ、意外とそう言うの気にするんだね」
「お前が嫌がるだろう……だから、な?」
図星を指されて黙り込むエイデンの頬を撫で、トレントは赤ん坊を無条件に甘やかす、その子へ全く責任を負わないで済む大人の顔で笑いかけた。今だけは絶対鏡を見たくない。特にこんな、人形のように微笑み返すエイデンと向き合っている時は。この青年はさながら底無しの谷だった。与えられた感情を素直に享受して空っぽの胸の内へ落とし込んだところで、いつまで経っても反響は返ってこない。
いや、きっと彼は弾いてやれば鳴る。この一年で、その前の年に比べ、躾は進んでいた。ただ音が歪過ぎて、自らが与えた刺激によるものなのか、それとも勝手に震えているのか、非常に分かりづらいだけ。
素直に身体から降り、隣へ横たわったエイデンは、トレントの目をじっと見つめ続けていた。もはや視線を逸らすことは、お互い出来なくなっていた。
「トレ」
「ああ?」
「僕、今年は良い子だったかな」
「まあ、及第点ってところか」
ぎりぎり範疇だ、と付け足せば眉間に皺が寄るので、唇で触れて解いてやる。
「来年もこの調子で頑張れって事だ」
「もう今年かも」
確かめる為、ベッドサイドへ腕を伸ばそうとするから、掴んで引き戻す。銃撃と言う究極の暴力行為をしでかした癖に、己へ振るわれる力づくの行為をエイデンは好む。それは確かだが、これは彼が望むことをしてやった訳ではない──不用意な身じろぎで布団に隙間が出来ると、立ちどころに冷えた空気が流れ込んでくる。今この時、それだけは断固お断りだった。
「もう今夜は寝ちまえ。何かするにしても目が覚めてからで良いさ」
絡め合わせたまま、手の甲、第三関節と細かくキスしてやれば、ひとまず身体的な抵抗は止む。
「なあ、俺達は全く面倒だよな。陽が昇るまで、朝が来たって言わない方が良いんだから」
「世間の人はそうじゃないの?」
「奴らは手前で勝手に物事を決めやがるんだよ。で、それが大抵、常識って奴に当てはまってる。俺達はそうしない方がいい、あいつらをパニックに叩き込むからな」
「別に構わないんじゃないの。あっちはあっち、こっちはこっち」
「お前にもそのうち分かるよ」
お勉強は来年でいい。いや、もう今年か。
「ハッピーニューイヤー」
酷く抑揚の薄い声で、エイデンが呟く。悪あがきの何て可愛らしい事だろう! 奔放な魂を窒息させるかの如く抱きしめるトレントは、結局返事を与えなかった。目が覚め、部屋の中がもう少し太陽で暖まってからで十分だと思ったからだ。




