表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/100

怒って貰えるつもりでいたなんて

第39回 お題「ロングコート」「こっそり手を繋ぐ」

登場人物が第三者と性的関係を持っていることを示唆する描写があります、ご注意下さい

 あれもきっと新品よね、絶対にeBayで買った奴じゃない。

 女達が言うように、バーバリーのトレンチコートは分かりやすく高級そうな見かけ。下品なネオン色の照明でどれだけ色付こうとも、その象牙色をいっそ強調するだけだった。

 脱ぎゃ良いのにと思っている外套は脱ぐ事なく、飲まないでおけと命じた酒を飲む。こいつが来ても絶対アルコールは出すなとバーテンには写真付きで教えたにも関わらず、チップを弾んで黙らせたらしい。カウンター席の一番隅に腰掛けたエイデンは、ロックグラスからウイスキーをちびちびと舐めている。トレントが近付いてくると、図っていたようにさっと掠めた青色の光が、振り向いた微笑みをさっと照らしつけた。

「仕事場には来るなって言ったろ」

「悪いことしてるから?」

「違う、お前にとっての誘惑が多過ぎる」

 ガードマンの連れが酔って店に迷惑をかけるなんて洒落にならない。腕を掴んで無理矢理立たせた時、近付いた口元から吐き出される呼気は間違いな酒臭かった。駄目押しとばかりに「いっそ暴れてやろうかな」と呟いたりするもんだから、二の腕に食い込ませる指の圧を強めれば、素直に顔を顰めた。何せバーバリーなんか着ている坊ちゃんだ。本来、暴力沙汰には縁が無く、対処も上手くできない。

 裏口へと引っ張っていく最中、先程まで控え室でヤっていた女とすれ違った。シフトが明け、母親に預けている子供を迎えに行くつもりだろう。ハル・ベリーを水で薄めたような美人で、もう服を着ている。ウルトラライトのダウンジャケットを身につけていてもすんなりした体躯は、ユニクロが広告に出せば良いのにと思えるほど颯爽と様になっていた。

 投げかけられた秋波に苦い笑いを返したトレントの横顔へ、エイデンは特に感情の乗らない目を向けた。賢いから理解はするが、事実を事実として受け入れるしかしない青年だ。今この瞬間はそれも有り難いが、後で少しは苦々しく思うのだろう。

 その「後で」は3分後にやってくる。

「前から思ってたんだけど、トレってああ言う店の用心棒の中ではすごく若い方だ」

 路地裏で壁に押し付けられたエイデンがほんの少し顔を顰めたのは、純粋に肉体の不快感を覚えたからなのだろう。外套のベルトを解き、ボタンを外したその下は、この季節にしては少し薄着だった。薄手のセーターに襟付きシャツ、間抜けみたいに一番上まで留めているボタンを外せば、霜が降ったような赤い鬱血が露わになる。

 トレントの視線が情事の跡へ吸い寄せられていると知って、エイデンは笑った。

「貴方が世の中をよく知ってるのは分かってる。そこらの男じゃ勝ち目なんかない位タフな事も。でも31歳って、世間的に見れば、まだまだ若造だよね」

 成程、こんなにも苛々させられた理由が分かった。暗がりは、この一見無邪気そうな青年が放つ事後の匂いを、酷く歪に匂い立たせる。トレントでなくても舌なめずりしたくなった事だろう。もう少し無視して、どうなるか眺めるのも面白かったかも知れない。少し急き過ぎた己に舌打ちしたくなる。

 そして相手の官能に煽られていると言うのは、エイデンもまた同じ事に違いない。お互い、知らぬ人間とのまぐわいが奮い立たせる。狂ってやがる、と呟いても、きっとエイデンはまた笑うだけだろう。ガキに理解しろと言うのは無理がある。

 シャツの襟元を握りしめていたトレントの右手を、エイデンは両の手のひらで包み込んだ。そのまま自らの頬に触れさせる。大分飲んでいる事は間違いないのに、夜気へ晒されたせいか、柔らかな輪郭は酷く冷たい。温度を更に教え込むよう擦り寄り、太い手首の脈動にそっと囁きを吹き掛ける。

「ねえ、トレ。僕は臆病者じゃ無いって言って。世間知らずな混血(ムラート)のお坊ちゃんは、やろうと思えば何でも出来るんだよ」

「ああ、お前は臆病なんかじゃない」

 深爪した指は頬に食い込ませても、痕を刻み込むことなど出来ず、ただどこまでも沈み込んで行くばかりなように思える。彼を傷付けたいのか、そうで無いのかさっぱり分からない。考えるよう強いられる事自体が侮辱に感じた。

「単に向こう見ずなだけさ」

「向こう見ず?」

「馬鹿で、世間知らずな、混血の、人殺し坊ちゃん。この瞬間の快楽さえあれば、何も必要無いんだろう」

 もどかしさは苛立ちへ直結する。「そう。そうかもね」と頷かれたとなれば、尚のこと。

「でも今この瞬間は、貴方のことを」

 表通りへ響く足音と馬鹿っぽい響きの歓声へ、エイデンは唇を凍り付かせる。そのまま離れ宙に浮きかけた手を掴み直し、トレントは板のように硬直した身体を自らの胸元へ引き寄せた。

「トレ」

 素直に驚く表情へ、これ以上の惨めな何かが付加されないうちに、唇を重ねる。絡めた指が芋虫のようにくねる。ペニスを穴へはめる要領で、汗ばんだ指の股へ己の指を押し込み、ぐっと握り込んだところで、どうだ。女だってもう少しまともな抵抗を示すに違いない。

 向こう見ずは若者の専売特許。ならば自らにもまだ、行使する権利があるはず。唾液に濡れた唇が外れる合間に「愛してる」とか「俺の宝物だ」とか呟いたら、エイデンは露骨に顔を顰めてみせた。外套とセーターとシャツを突破され、直に身体を撫で回せば、渋面は余計に深まる。こんな北風が冷たいにも関わらず、可哀想に、とどこか遠い所で考える。

 甘っちょろい奴と一緒にいるから、甘っちょろい感傷が脳裏を掠める時がある。手に手を取って一緒に逃げ出そう。もしもお前がその気なら。少なくとも俺はお前にその気にさせられる事が出来るかも知れない。

 機会はあるのに、結局2人こそこそと身体を弄りあっているだけなのだから。汗ばんだ手のひらが不快で、なのに離すことが出来ず、トレントは己の首筋に彼の手の甲を当てさせた。いっそのこと締め上げたらどうだ、と誘ってみたのだ。

 尤も、指先が白くなるほど強く握られているこの有様なら、とてもじゃ無いが。幾らでも逃げられるのにとトレントがどれだけ言っても、結局この青年は捕らわれのままなのだろう。

「誘惑してるの?」

 展翅される蝶の従順さで愛撫を受け取り、エイデンはぽつりと呟いた。

「そうなんだね?」

「今まで気付かなかったのが驚きだな」

 すっと身を離してやれば、大きく肩で息をつく。さながら安堵しているかのように。己の手でそこそこ乱れた姿をじっくりと眺めながら、トレントはバーボンの辛さが乗り移った舌で嘯いた。

「言ったろ。ここにはお前に相応しくない誘惑が多いって」

 エイデンは笑い返そうとした。失敗した表情が崩れる前に、トレントはさっさと身を翻し、店へと戻った。残りの勤務時間はあと2時間。あの坊やが最終的にどんな顔をしているか、じっくり噛み締める事も出来る。或いは、すっかり忘れてしまうことも──


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ