真の蛇に噛まれる
第119回 お題「アピール」「魅力」
馬鹿正直にやってみたら案外効いた。「愛してる」と心から、本当に心の底からの本音を、精一杯愛らしく見える作り笑顔と共に言い放てば、トレントは一瞬煙草を運んだ手を、口の前で留まらせた。彼が息を吸っても吐いてもいないのは、細く棚引く紫煙が一向に揺らぎを見せないからだ。薄く実態のない遮蔽物の向こうでコバルトブルーの瞳もまた眇められたまま動かない。これは単にアンモニアが筋肉を刺激しただけ。何も考えず肉体的に反応しただけ。
フランスかぶれの夫婦が営むカフェは、今夜も客が一人として見当たらない。数週間前、この先の崖でまたもや身投げが発生したそうだ。正確には心中と言うのか。ティーンの恋人同士が手を繋いで飛び降りた。その一部始終をBIGOLIVEで配信していた。
勿論アカウントはすぐに凍結されてしまったが、拡散された動画をエイデンも観た。普通の日常配信だと思っていた。車の中で2人は歌を歌ったり、買ってきたランチを食べたり(幸か不幸か、今自ら達が居座る店のテイクアウトではなかった)まるで普通のデート、ドライブを満喫しているようにしか見えない光景。車窓の風景に見覚えがあるな、と訝しんでいたら、二人は路肩にレンタカーを停め、淀みのない足取りで外へ降り立った。それからガードレールを乗り越えるまでの間に、二人が交わしたのはほんの二言三言だけ。まるでどこか流行りのショップにでも入るかの如く、一切の重苦しさを感じさせず、2人は落ちて行った。そう、軽やかに。
沈黙は短いものの、アップルパイの上でヴァニラ・アイスクリームが溶けるだけの時間は十分にある。結局トレントが翳す手を外した時、無精髭の中の唇は、もうどうしようもないと言わんばかりの薄笑いに染まっていた。
「どうした、急に」
紙巻の吸い口は、機械油へ汚された親指の爪により、やたら芝居掛かった勢いで弾かれる。ちょっと溜まった灰は、的確に陶器の中心、沢山の先客の間へ落ち埋もれた。この男と、ほんの時々エイデンも燻らせるせいで、店が定める全面禁煙のルールは有名無実と化していた。赤白の格子模様をした、いかにも浮かれた欧州的テーブルクロスも、天井からぶら下がるトルコランプも、ヤニでくすんでいる、絶対に気のせいではない。
店の装飾品と同じくらい、対座する男もまた薄汚れた感じがする。こんな男だったろうか。分厚い白磁の皿へ零れ落ちる、ベタベタしたフィリングをフォークでこそげ取りながら、エイデンはまっすぐ正面を見つめ続けていた。
「僕らだって、いつ死ぬか分からないから」
「アホ抜かせ、俺はお前と心中なんて絶対ごめんだぞ」
煙草を相当無理して隙間で捻り消し、何も入れないコーヒーのマグを取り上げる時もまだ、トレントは蔑みを隠しもしない。
「大体、お前にゃそんな度胸も想像力もありゃしないだろう」
「夢想的だって、前ノックス先生には言われたんだけど」
「お前の頭はお花畑過ぎるからな。苦痛のイメージなんて考えたこともないだろ」
辛辣な物言いは、けれど重ねられれば重ねられる程、説得力も増す。あーあ、と結局、いつも通り呆気なくしょげて、エイデンは傷だらけなカトラリーの先端を口に含んだ。いつもと同じく、シナモンの風味が強い。滅茶苦茶好きだな、とは到底思わないのだが、何故か毎回頼んでしまうのは、絆されているからだろうか。
妥協なんかしたくない、少なくとももう少しは無縁でいられると思っていたのに、この男といるといつも自らか折れている気がする。これを望んでいたのか、と尋ねられても、素直に首肯することなど出来るはずもない。落としてしまった視線をそろそろと持ち上げれば、また煙草、店に入ってから5本目か6本目。年季の入ったジッポーの炎が、ふっと揺らめく。
「でもまあ、その考え無しなところがお前の魅力だとつくづく思うよ」
エイデンが口を開く前に、「ああ、俺もお前を愛してるさ」と、いとも気軽な口ぶりで続けられる。
「で、馬鹿にだって意見はある、だろ。ったく、死ぬとか殺すとか言やあ、証を立てられると思ってるんだからな、ガキは」
「だって他に方法なんて……」
「俺はお前の兄貴やノックス先生と違って、甘ったれた脅迫でお前の機嫌を取ったりしないぞ」
独立独歩の精神を持つ、男の中の男、トレント・バーク。ほんとかな? と内心首を傾げたのは、以前バルカンへタンデムして、あの自殺の名所へ連れて行ってくれたのが、目の前の男だからに他ならない。
あの時トレントは、疑いようもなくエイデンを殺したいと願っていた──自立した大人は、意見の表明を躊躇しない。それは押し付けるとは、全く異なる話なのだ。
この男の手が自らの首へ伸びてくるとしたら、それは必ずや本人の意思によるものだろう。例えエイデン自身ですら「ごめんなさい、僕のせいで」と謝り続ける衝動へ駆られるシチュエーションへ遭遇したとしても、彼は決して事実を認めないに違いない。
気付きを得たのは嬉しい。今度こそエイデンが、本心から湧き上がった微笑を浮かべると、すかさず猫撫で声が心の隙間へ充填される。
「わざわざそんな主張しなくても、お前は十分可愛い奴だよ」
「ねえトレ、僕のこと、絶対に崖から突き落としたりしないでね」
空っぽの心臓が膨らむだけに及ばず、太い血管にまで空気が入り込み、何もかも破壊されてしまいそうな心持ち。甘いヴァニラ・ビーンズを堪能しながら、エイデンは益々笑みを深めた。
「僕、痛いのと終わるのだったら、まだ痛い方が我慢出来る気がする……今のところ」
「だろうな」
喉奥の含み笑いに連動し、煙が揺れる。いい加減お開きの合図だ。遅い夕食がパイだけなのは心許ないが、まあ、トレントの家に行ったら酒も置いてあるし、カロリーとしては十分過ぎる位だった。何よりもエイデン自身、先程から散々とセックス・アピールを直射する男へ、好き放題されたい。或いはご褒美を与える必要がある、とも言い換えることが出来るだろう。
バターをたっぷり混ぜ込んだパイ生地を必死に突き崩す、こんなにも無様な姿を、トレントがしがみつくようにして哄笑してくれるなら、もう一度父親を殺すことだって躊躇しない。勢い任せで、馬鹿正直に認めながら、エイデンはこれまた甘ったるい己のカフェオレもどきで、口の中を洗い流した。




