沈んだ気分
第8回 お題「朧月」「畦道」
アーカンソーの水田で死体が見つかったとネットニュースのヘッドラインにはあった。正確には農地の水張りも済み、明け方からは籾撒き用の飛行機を飛ばそうと夜中に最終確認をしていた作業員が、濁った水に沈んでいるような状態の青年を発見したのだ。
見つけたときは物凄く怖かっただろうなと、エイデンは素直に思った。昔教科書で、多分ソンミ村の虐殺と思しき写真を見た時の衝撃を思い出す。大きな穴へ片っ端から放り込まれた死体には、恐らく消毒薬だろう白い粉がまぶされて、さながら油の入った大鍋へ放り込まれる前のフリッターみたいな見てくれをしていたと記憶している。
SNSに流される、畦道に引っ張り上げられたその青年も似たり寄ったりの姿だった。全身にまみれる灰色掛かった泥は今や乾いて、身体の輪郭が取れないほどの有様。その癖瞼やその下の眼球は虫に食われている事がはっきり分かる、ぽっかり開いた穴が強調されていた。こんなものが満月の下に照らされていたなんて、腰を抜かして失神しなかっただけでも大いなる肝っ玉の持ち主だと言えた。
いや、その日の夜は月が出ていたのだろうか。更に検索サイトへ文字を打ち込んでいたら、隣で覗き込んでいたトレントはうんざりした顔で「違う違う」と首を振った。
「これはソンミ村じゃない。ほら、ラオスってキャプションに書いてあるだろう。掛けられてるのは多分石灰だな、死体の分解を早める為だ」
トレントの家のポーチで並んで腰を下ろしている状況だからこそ、取り上げられたスマートフォンは投げ飛ばされずに済んだのだろう。もしも居間のカウチだったら、テーブルの上へでも乱雑に放られていたに違いない。
「あと、そんな死体の写真なんか見るなよ、悪趣味な奴だな」
「わざわざ検索したんじゃ無いよ。勝手に流れてきた」
片手に携えていたビールを一口含み、エイデンは空を見上げた。5月に向かう夜は思ったよりも気温が高く、喉が渇いている。
「ただ、彼もヒスパニック系の混血で僕と同じ位の年齢、しかもニューヨークに住んでたってあったから気になったんだ。彼はアルゼンチンじゃなくて、メキシコらしいけど」
「死ぬ前に暴行を受けてたって?」
「こっちのニュースじゃ、男娼だったって書いてある……いや、そもそも性的なことは何もされてないって話も」
棚引く霞が光を阻む様子は、さながら月が貞淑な存在であると誇示しているかのよう。まるで教会に行く為にレースのヴェールを被る、母の生まれ故郷の女性を思わせた。
儚くか弱い存在である彼女達と違って、エヴァ・ペロン並のタフさを持っていた母は最初の夫を使用済みのタンポンのように捨てた後、既に2回も妻へ痛めつけられた金持ちのボンクラ坊ちゃんを強引に掻っ攫い、エイデンを産んだ。
とは言うものの、美人でとことん女性らしい女性でもあった、と彼女を知る全ての人間が口を揃えて言う。エビータが子宮癌で死んだように、母は乳癌。貴方が7歳までは必ず生きているわ、との約束を守ってくれた。それまでは神のうちだもの、貴方みたいに可愛い良い子は、天なる父に連れて行かれてしまうかも知れない。心配しないで、もしも天使が連れに来ても守ってあげるわ、私の可愛い坊や。
素晴らしい母親だった。短い結婚生活で50も年を取ったように思えた父は、マミーに会いたいと泣いていた幼子へ同情しつつ、上手く慰める事が出来なかった。他の使用人達もまた同じく、遠巻きにしていた。
人は処女を失う時と殺される時、どちらも母親を呼ぶと言う。きっと悲しくて、孤独で、怖いから。逆を返せば、そう言う気持ちの時は、助けを求めても良いのかもしれない。
「母さんに会いたいよ」
「何だ急に」
そこから先、まだ嘲りが続けられるかと思った。けれどトレントは、バドの小瓶に唇を付けたきり、様子を窺うばかりだった。鈍い色の金髪は夜風に靡けば辛うじて本来の色を示すと言った程度で、すっかり闇に沈んでいた。まるで今の彼の存在そのもののように。青い瞳だけが、じっとエイデンを見つめている。
ど田舎の畦道で惨めな状態のまま晒し者にされ、それどころか世界へその様子を拡散された哀れな青年。余りにも酷過ぎる。だって死体は気持ち悪い。
病状が末期の状態まで陥った母が、面会謝絶を言い渡して、一人息子すら病室へ入れようとしなかった理由を、エイデンは今更知った。記憶を美しく保っていて欲しかったのだろう。最後の挨拶をしなさいと父に抱き上げられた時眺めた棺桶の中の母は、エンバーミングの力で生前の面影へ出来る限り近付けてあったが、それでも蝋人形のような非現実的さは拭えなかった。
今は物理的な特殊技術の他にも、アプリの加工技術がある。テレビで見た生前の青年の写真は、SNSから引用されていたに違いない。今時のどんな若者とも同じように美しく、輝くような笑みを浮かべていた。どれだけ泥を擦り落としたところで、あの美貌に戻すことは金輪際できない。
「不思議だね、父さんに会いたいとは、これまで一度も思った事がないのに」
「そりゃあ、自分が殺した相手に会いたいなんて物好きはそうそういないだろうな」
「父さんは親として責務を果たしたよ。僕を決して飢えさせないで、良い教育を受けさせて、何でも買ってくれた」
青褪めた半月から引き摺り下ろした視線で、エイデンはトレントを睨みつけた。
「トレ、僕のこと愛してよ」
「どういう風に」
平然と言ってのけるのが憎い。大体、どうしてあの美しい深海色の瞳は、こんな覚束ない月の光の中ですら、ぎらりと輝きを帯びるのだろう。
本能的な恐怖と不甲斐なさで顔を背け、唇を噛み締めれば、追い討ちを掛けるような肩へ腕が回された。強引に引き寄せられたのも束の間、べろりと頬へ舌が這わされる。
「花嫁みたいにか、それとも娼婦みたいにか」
「ううん」
鼓膜へ直接吹き込まれるような、低められた声にぞくぞくと背中を震わせ、エイデンは首を振った。
「息子みたいに……弟みたいでも良いよ」
益々顔を近付けて影に入り、ふん、と馬鹿にしたような音色で鳴らされた鼻だが、恐らくトレントは、然程相手を侮蔑する意図はないのだろう。
「全く可愛い奴だよ、お前は」
そう呟いた声はどろりと重く、まるで泥濘のようだった。




