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偽の林檎を食べさせる

第29回 お題「スイーツ」「喫茶店」

 馬鹿正直にやっても何一つ良いことなど無かった。確かに最初の取っ掛かりを掴むには若干の誠実なふりが必要なのかも知れない。だが一度潜り込んでしまえば、後は下道を探すべきだと言うのがトレントの考えだった。その界隈の人間しか知らない、快適に先回り出来る下道。

 パリに10年程駐在していた輸入会社の営業マンが、引退後に妻と始めたカフェは、観光客の間だとそこそこ有名なのだそうだ。本場で買い込んだ木製の座り心地が悪い椅子や、赤と白の格子柄テーブルクロス、黒松を磨き立てた天井からトルコランプがぶら下がっている様子は、SNS映えするとイェルプで評判も上々。ただし地元の人間は来ない。小高い崖の途中と言う立地が悪すぎる。海水浴の帰りに少し回り道するには丁度良いのかも知れないが、3年に一度位投身自殺が出る絶壁に好きこのんで行く奴など。

 夫妻がこんなところに瀟洒なキャビンを建ててしまったのは、地域住民が教えてくれなかったからだ。没交流のツケ。世間の目を隠れ、ひっそりと暮らしているトレント達にとっては、だからこそ穴場と言える。

 パリ風を気取る店が誇る名物のアップルパイは、アメリカのソウルフードらしくとにかくシナモンが効いている。どんとテーブルへ乗せられた大きな一切れに、エイデンはパッと顔を輝かせた。甘党の大学生を更に機嫌良くする方法は幾らでもある。例えばトレントが自らの目の前に置かれた銀の器から、盛られたヴァニラ・アイスクリームの大半をスプーンで抉って、パイの上に落としてやるとか。

 クリームはあっと言う間に溶け、ほかほかと湯気を立てる網目に染み込み、それから分厚い白磁の皿へ垂れ落ちて行く。なのにエイデンは、2つ運ばれてきたコーヒーカップの1つを引き寄せ、見ていて気分が悪くなるほど大量にミルクと砂糖を入れてから啜った。上目遣いは求められている証だ。フィクションの魔術師を思わせる煉瓦色の瞳を下目遣いで眺め、トレントは胸の内から、たっぷり溜めていた紫煙をゆっくりと吐き出した。口コミ曰く、本来この店は全面禁煙なのだそうだが、数少ない常連客が来ると、店の親父は自然に灰皿を出してくれるようになった。

「祝ってくれないの?」

 やがて、痺れを切らしたエイデンが訪ねる。あー、としばらく唸ってから、トレントは既に2本の先客がいる灰皿へ、さして溜まってもいない灰を弾き落とした。

「進級おめでとう、禁酒おめでとう、誕生日、おめでとうとか?」

「トレの? 誕生日?」

 傾げられる小麦色の顔は両手に包んでしまえそうなほど小さい。小さいものは無邪気だ。少なくとも今はそう見える。

「32歳……おめでとう」

 子猫じみた薄い舌は結局更に閃き、「違うよね?」と付け足す。何で信じたんだよ、と揶揄うのすら面倒で、トレントはぷかりと最後の息で丸い輪を作ってみせた。

「いや、お前の」

「8ヶ月後だよ」

「そうだった、悪い悪い」

「今日は、僕がカウンセリングへ通い始めて1年目の記念」

 ようやくフォークが取り上げられ、ぱりぱりのパイ生地に沈められる。

「あと1年我慢すれば、無罪放免」

「最初からお前は無罪だ」

 その台詞が本心からでないと承知していたにも関わらず、エイデンは嬉しそうに微笑んだ。

 成人までの保護観察が妥当なのか大袈裟なのか、はたまた不足しているのか、正直なところトレントには分からない。泥酔した挙句、護身用のコルトで父親を泥棒と思い込んで撃ち殺したという建前の青年の刑罰、いやケアとして。

 彼に必要なのは愛情なのだと言う。傷付いた心に向き合って、正しい方向へ導くことの出来る愛情の持ち主。今が最後のチャンス、思春期が終わるまでにロールモデルが見つけられていないと、もう取り返しが付かなくなる、云々。

 精神分析屋に研究対象として将来を嘱望されるお坊ちゃんは、文字通り保護者としてトレントを指名した。見透かされていたのだ。彼と同じように振る舞えば、上手く世間に馴染めると。高を食っているのかも知れない。彼の言動を読むことは容易いと。何せ、自分の考え方をそのまま当てはめれば良いのだから。

「恩を売ったつもりになるなよ……そもそも貸し借りはない。俺が証言したお陰で、お前はムショ行きを免れたんだから」

「分かってる。恩なんか感じなくていい、僕が勝手にやったことだもの」

「勝手に、ねえ」

 「だってトレがセックス・トイみたいに扱われるのが嫌だったんだ」父親の葬式が終わった後、彼はこっそり教えてくれた。後でその話を青年の伯父に報告すれば、道楽な弟を厄介払い出来たことによる晴れやかな表情は、途端に懸念へ曇った。「あの子が他人の為に何かをしようと思ったなんて、初めてのことじゃないか」

 その癖、お前俺に惚れてんのか? と尋ねれば、「分からない」と返ってくる。でも少なくとも、己に気に入られたいとは思っているようだった。もう野良猫に漂白剤は掛けない、犬に殺鼠剤を食べさせない。無闇矢鱈と火災報知器のボタンも押さないし、ゴミ箱に火をつけたりもしない。二度と父親を銃で撃ったりなんかしない。努力しているのだ。それは認めてやっても良いかも知れない。

「恋敵を殺すなんて、テレノベラみたいだな」

「うーん」

 彼の父親がそうしたがったように、いつかはエイデンも己の逸物を欲しがるのかも知れない。そのうち、もしかしたら。

 先のことを考えても無駄なことだ。人間は一歩ずつ成長する。矯める機会は十分にあった。その手に彼の運命を握ることが楽しいかと自問自答した時、馬鹿言えと一笑に付せない己にうんざりする。こんなはずではなかった。快適に先回り出来ても、後続車が法定速度で走っていたら、途中で停まって待っていなければならない。

「でも、父さんのこともちゃんと人として扱わなきゃ駄目だったんだと思う」

 答え合わせを求める眼差しに、トレントは鷹揚に頷いてみせた。

「そうさ。例え男を食い漁る色情狂でも、人間として扱わないといけないんだ」

 もぐもぐとよく噛んで食べる子供っぽい表情が安堵に染まるのを見ると、もっと手を出したくなる。食い散らかしたくなるのをいつもの如く涼しい顔で往なすことが出来るのは、偏に年の功故だった。

「でもお前、そんなこと最初から分かってただろう。何せ親父さんの目を見て撃ったんだから」

 お前は度胸があるよ、と猫撫で声で囁けば、目の前で輝かしく開いたのは正真正銘、今夜一番綺麗な笑顔だった。

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