情報整理ターン
章夫は、ハッとした。
マシュー…そういえば、どんな顔だっただろう。
今、目の前で見ているマシューの顔が、暗いせいなのかはっきりしない。
というか、ずっと見ていたはずなのに、どんな顔だと言われたら、ハッキリこうだと言えないのだ。
「…マシューさん…顔、覚えてない。」
乙矢が、驚いた顔をして反論しようとしたが、何かに気付いた顔をして、口を閉じた。
恐らく、乙矢自身も思い出せない事実に気付いたのだろう。
今、正に目の前で見ているはずなのに、どうした事かぼんやりとした印象で、視点が定まらないような感じにしか見えなかった。
『あなたは誰なのだ。あのパズルの扉の向こうに、マシューの死体があった。』
識とマシュー以外の全員が、息を飲む。
マシューはフフと笑うと、言った。
「おもしろい。実におもしろい。我に顔など無いのだから、覚えることなどできぬに決まっているではないか。」
皆が、驚いた顔をした。
マシューは、日本語でそう、言ったのだ。
驚く皆の前で、マシューはスッと浮き上がった。
急に何の前触れもなく、何かに吊り下げられている様子でもなく浮き上がったマシューに、佐織も澄香も尻餅をついて震えて見上げている。
そうして、それはクルリと一回転すると、その姿は長い黒髪に、それは美しい顔立ちだが、識にそっくりの着物姿の男になっていた。
光も無いのに、その全身はぼうっと光輝いている。
皆が恐れ慄いてその顔を見上げていると、マシューだった男が言った。
「このように。顔など何とでもなるものよ。お前達が皆、頼る男になってやったぞ?とはいえ…」と、識を見下ろした。「このまま帰すのはあまりにもお前達は仕事をしていないだろう。この男が居らぬ中で、やって見せるが良い。」
そう言った時、触れてもいないのに、識がその場にバッタリと倒れた。
「識さん!」
章夫が叫ぶ。
マシューだった男は、ハハハと笑い声を上げると、言った。
「それで逃れてみるが良い。我の正体を見破った褒美に、お前達が恐れるあれにはお前達が呼ぶまで出るなと申しておこう。だがそう長くは待たぬ。飽きたらさっさとこの場所ごと潰してあれの餌にする。退屈させるな。我を喜ばせ、我を讃えよ。ではな、ヒトよ。」
識そっくりなのに、もっと年上で、あり得ないほど美しい。
皆が目を反らせずに居る目の前で、その姿はスーッと消えて行った。
識が倒れ、ジョアンが倒れて、残ったのは章夫、乙矢、佐織、澄香の四人だけとなってしまった瞬間だった。
「…ニャル様…?」澄香が、力なく言った。「あれって、きっとニャル様よね?APP18ぐらいあったでしょ…?マシューさんはきっととっくに死んでたんだわ、それでずっと、観察されてたってことよね?」
章夫が、がっくりと肩を落として、気を失っている識を見た。
「識さんに頼り過ぎてたんだよ。それを側で見てたから、識さんを排除することでこっちの戦力を削ぐってことだろう。識さんは、最後にいろいろ指示してくれたけど…結局、召喚と退散、誰かがやらなきゃならなくなった。」
乙矢が、腕時計を見下ろした。
「時間は、どうなってるんだろう。」
だが、そう言ってみた時計のデジタル表示は、完全に止まっていた。
「あれ?」
すると、キーパーの博の声がした。
『はい。ニャルラトホテプの正体を、識が見破ったので、ここでニャルラトホテプにより化け物が出て来る時間が止められています。本来ならここで情報整理の20分の後に有無を言わさず脱出ターンでしたが、これで充分に時間が取れます。ただ、一時間を越えることは許されておりませんで、一時間経つと強制的に化け物が現れます。それまでに、全ての準備を整えてください。お手洗いは大丈夫ですか?』
章夫は、ハアとため息をつくと、立ち上がった。
「行っとこう。」と、皆を見た。「ここから、対決だから行っといたほうがいいと思うよ。識さんも居ないし、作戦をしっかり練ろう。あ、邪神が出て来ないってことは、どの部屋へ行くのも良いってこと?」
博の声が、答えた。
『いいえ。もう各部屋の扉は閉じていて開くことはありません。これまでの探索で、手に入れられていないものはもう、永久に手に入れることはできません。ちなみに、脱出ターンは、一時間のタイムリミットの後か、準備が整って正面の扉に石板をはめ込んだ瞬間から始まりまして、5分となります。5分以内に脱出できない場合は、全員が餌となったとみなされますのでご注意ください。』
シビアな判定だなあ。
章夫は思って頷きながら、つかの間の休息だとトイレへ向かったのだった。
章夫がトイレから戻ると、乙矢と澄香、佐織は一生懸命床に魔方陣を書いていた。
腕時計は、再び時を刻み始めていて、今度は一時間から遡っているようだ。
三人の作業を見ながら、章夫は言った。
「ねえ、僕、思ったんだけど。」皆が視線をこちらに向ける。章夫は続けた。「僕が退散呪文を唱えて、ニョグタを退散させるよ。召喚は、しなくていいと思う。」
乙矢が、それを聞いて言った。
「でも、出口は作っておいた方がいいぞ。どこに帰すんだよ。扉に向かって帰さないと、まずいことになりそうじゃないか。3の部屋の扉は、部屋の中にあるから多分、空間がぐちゃぐちゃになるぞ。ほら、神が出て来た時の空間の話を識さんがしていただろ?あちこち繋がってバラバラになるんだ。この門にたどり着けなくなるかもしれない。少なくともこの廊下と居間、食堂は、そんなことにはならないんだから。」
言われてみたらそうだった。
やはり、召喚もしなければならないのか。
「…時間がギリギリだと思うんだ。石板を嵌めたら時計が進むだろ?そこから呪文を唱えて、出て来たらティクオン霊液と輪頭十字を投げつけて、これ…ヴァク・ヴィラの碑文、や な かでぃしゅとぅ にるぐうれ すてるふすな くなぁ にょぐた くやるなく ふれげとる、って唱える。その後ここに走って来る。」
噛みそうだ。
三人は、顔をしかめた。
「…もっと向こうに魔方陣を書いた方が良かった?」澄香が言う。「ここまで走って戻って来なきゃならないのよね。」
乙矢は首を振った。
「いや、あんまり近いと一緒に来てしまうかもしれないじゃないか。だから識さんも、ここに書けって言ったんだと思うんだ。」と、黙々と魔方陣を書く佐織を見つめた。「こっちはこっちで三人で一緒に間違えないように呪文を唱えなきゃならない。5分だから、一発勝負だろう。」
澄香は、心配そうに言った。
「SAN値大丈夫?ニョグタを真正面から見るんでしょう。ジョアンさんも…多分、真正面でニャル様の本性を見てしまったんじゃないかな。だから、一発アウトだった気がする。」
ジョアンは、識と並んで床に寝かされている。
章夫は、言った。
「多分、識さんは自分が一番SAN値を失っていないから、やろうとしてくれたんだと思うんだよね。でも、こうなったら仕方がない。見ないように頑張るよ。誰かがやらないとダメだからね。でないと、これだけ頑張ってくれた識さんまでロストだ。やるしかないよ。」と、最後のSAN値を聞いておこうと、腕時計に呼び掛けた。「キーパー、今のSAN値は?」
博の声が答えた。
『只今のSAN値、識62、乙矢50、章夫51、澄香48、佐織41、ライアン・カーチス20です。』
めちゃヤバイ…!
それを聞いた皆の顔色が変わった。
佐織はまた発狂の危機に瀕しているし、澄香も大概ヤバイ。章夫は、出て来たニョグタをひと目でも見たらもう、ヤバかった。
何しろジョアンが20まで減っている。
というか、ニャルラトホテプを見たのなら、その程度で済んだのはむしろラッキーだった。
こうなってみると、やはり識が一番召喚と退散に適任だったのが分かる。
一番良い所をニャルラトホテプは持って行ってしまったことになる。
「分かった、ありがとう。」
章夫が言うと、時計がまた進み出した。
乙矢が、暗い顔で言った。
「…まずい。オレ達だってひと目でも見たらマズいから、廊下の向こうには背を向けて呪文を詠唱しよう。後ろの事はもう考えないようにして、特に佐織さん、君は気を付けないと。発狂してどこかへ走り出しても、誰も君を追い掛ける余裕がないぞ。」
佐織は、青い顔をしながら頷いた。
だが、たった1のSAN値減少で発狂してしまう佐織の、プレッシャーはそれだけでSAN値が減ってしまいそうだった。
「…走り出さないように、足を縛っておいたら?」澄香が、言った。「絶対無理よ、あと1なのよ?発狂したって最悪ここに転がってさえいてくれたら、引きずってでも帰れるわ。だから、足を縛ってここで一緒に詠唱しましょう。で、途中で発狂して床に転がっていても、門さえ開いたら問題ないわ。私が引きずってく。あなたは門が開いたら、章夫さんが戻って来られるようにそっちをサポートして。佐織は私に任せて。」
佐織は、澄香がそう言ってくれたのを聞いてホッとしたような顔をして、魔法陣を描くのを続けた。
どうやら、佐織は絵を描いたりするのが得意なようで、美しい形で図の通りに描き上げて行く。
章夫は、言った。
「…それが描き終わって呪文の練習をしたら、識さんとジョアンさんを魔法陣の上に移して、準備をしよう。僕があっちへ行ったら、ここで詠唱する準備をしててね。多分、石板をはめ込んだら時計が動き出すだろうけど、僕が召喚呪文を唱えて、それから退散呪文を唱え終えるまでは、詠唱しても門は開かないかもしれない。でも、ずっと唱え続けていてもいいかもしれない。それなら環境が整ったと同時に門が開くだろうから、終わったか確認するタイムロスがなくて、いいかもしれない。」
乙矢は、頷いた。
「章夫があっちへ行ったら、すぐに3人で唱え続けるよ。もう何も考えずにひたすら唱える。門が開いたら、すぐに章夫を迎えに行くから。こっちへ走って来てくれてても、そこで倒れててもきっと引きずって行くよ。大丈夫だ、きっとうまくいく。」
澄香も、覚悟を決めた顔をしていた。
佐織が描く魔法陣が、完成しようとしていた。




