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君と海辺で

 大掃除をした甲斐があって部屋は綺麗になった。元旦には白い息を吐きながら神社に向かい、コートを着た人々の列に参加した。


 美咲さんはいつも楽しげに、目を細めて笑っていた。面白いことがあれば、それを共有したいがためにこちらを向いた。

 僕もそれに対して笑い返した。これは演技じゃない。彼女の前では着飾らない自分を見せることができた。


 それでも、彼女と人前で手を繋ぐことはなかった。


 冬休み明けを目前にした夜、彼女はこたつの中で眠ってしまった。


 「お風呂、入らないの?」


 僕の問いに、彼女は頷いた。


 「俺、入るからね」


 室内かを疑いたくなるほど寒い脱衣所で服を脱ぎ、急いで風呂場に入った。タイル張りでレトロな雰囲気を放つ風呂は、脱衣所以上に寒かった。急いで深い浴槽に浸かると、あまりの熱さに、額に汗が浮かび上がる感覚がした。


 彼女を持ち上げて、ベッドに乗せた余韻が腕から胸にかけて残っている。

 水に濡れた自分の手を見つめていると、美咲さんが飲んで帰った日の記憶が心臓から湧き上がってくるような気分に襲われた。


 強いアルコールの匂い。乾いた空気。止まらない彼女の泣き声。そして、彼女の言葉。


 彼女はあの日のことを覚えていない。ただ八つ当たりをするための、武器としてちょっとした不満を投げかけたのかもしれない。

 だが、もしも彼女が常日頃からあのことに不満を持っていたとしたら、どうするべきなのだろうか。


 二人でいれば、世間や世の中なんてものはどうでもいいと考えていた。この一間の部屋こそが全てで構わないと信じていた。しかし、彼女の目からすると僕はそんな人間にはなれていなかったのだろうか。


 世間、社会、世の中。遠い天井でさまざまなものが回る。


 音、匂い、温もり、色。湯気を巻き込みながら、それらは大きな塊となって頭上でうごめき始めた。念々と動くその大きな物体は、ひたすらに空中で泳ぎ続ける。いったい何のために動き続けるのか、いったいそれが何者なのか。

 皆目見当がつかない。うるさい。痛い。熱い。額に浮かんだ汗が、こめかみを滑って顎から浴槽に落ちて、小さな波紋を描いた。


 僕は、浴槽に潜った。


 耳元で泡が舞い上がる音が鳴り、優しく、一方で過干渉ではない温もりがつむじから足の先まで僕を包み込む。


 他のものでは代用できないと断言していいほど、これまでに体験したことのない浮遊感がそこには存在した。本当は浴槽の底に沈んでいるだけのはずなのに、深い深い海の底から浮上している。そんな錯覚に陥るようだった。


 視界は辺り一帯が暗闇で、必要以上の情報は何も残されていない。

 暗闇を塗り尽くす色は、よく見ると黒ではなく深い青であった。ただの青でも水色でも、藍色でもない。それは深い青であった。油絵などで見られるさまざまな色を塗った上で黒い背景を描いたもののように、濃いものも淡いものも含めた全ての寒色が混じり合った上での、洗練された青。

 それが深い青だった。

 今僕は、その色に囲まれている。


 泡が一通り飛翔すると、心臓の躍動する音が体を伝って耳に入ってきた。一定のリズムで静かに鳴るその鼓動は、聴いていると安心を与えてくれた。


 丸まって浮遊する体、ただ美しいだけの洗練された世界、鼓動。そして、単純な思考。どれをとってもシンプルであった。

 体の力が抜け、自分が今何に触れているのかわからなくなる。それはまるで、体という殻がゆっくりと水に溶け、魂が水に還る最中のような気分であった。


 それでも、そんな時間は永遠には続かない。次第に息苦しさを感じ、このままではいられなくなってしまう。


 あと少しだけ。もう少しだけ。


 そう思いながら、呼吸を我慢する。


 お願いだから、あと少しだけ。


 まさに朝の二度寝のように、朦朧とする意識の中で自分と約束しようとする。


 ついに限界が来て、僕は浴槽から顔を出した。

 甘ったるいほど濃厚な空気が、顔を急激に冷やす。シャンプーの甘い匂いと水場特有の湿った匂いが混じり合って、鼻に入ってくる。水が滴り落ちる音と、換気扇の無機的な音だけがその場に響いていた。


 ***


 翌る日、空がまだ釈然としない色をした時間帯に、僕は布団から出た。窓を開けても部屋は薄暗く、寝起きということもあって視界には霞がかかっていた。


 美咲さんは夢のない安静な眠りについているようで、なんの混じり気もない寝顔を浮かべていた。


 窓の外からは鳥のさえずりが聞こえる。部屋の中には、名前も知らないサカナたちがそれぞれ自由気ままに泳ぎ回っている。


 僕は忍足で部屋を行ったり来たりして、ノートとボールペンをリビングテーブルに運んだ。


 ***


 「美咲さんへ。突然なんのお礼もなく、姿を消してしまうことを許してください。あなたに出会ってから、特に一緒に過ごしたこの一ヶ月間は、僕にとってとても特別な期間でした。


 出て行く理由は、何か不満があったからなんて偉そうなものではありません。僕は、あることに気づいてしまったのです。


 僕はある日、世間に突き放されてしまいました。その恐ろしい世間というものから逃げた先で出会ったのが、美咲さんでした。元いた場所を怯えて見つめながら、抱きしめあっている。そんな日々が続きました。それでいいと思っていました。それでも互いの熱を共有できるのならば、永遠にそれが続いても構わないと思ってきました。だけど、それは無理なんです。気休めで作った居場所に、未来なんてないのだから。


 愛というものは、世間に認められなければ実らない。なのに僕は世間から逃れて、それを常に意識し、恐れながら生きている。悔しくても、それを認めなければなりません。だから僕は、胸を張って自分を自分と言えるようになるために、もう逃げるのはやめようと思うんです。夢を見るのは、もうやめにしようと思うんです。


 鍵はポストに入れておきます。長い間、ありがとうございました」


 暗い天井を見つめながら脳内でしたためた文章を、ただ無心で書いた。何かを考えてしまっては、もう先が書けなくなってしまうから。


 「いつか僕の心が水面まで浮上したら、また一緒に浜辺を歩いてもらえるでしょうか? そして、ただいまと言っていいでしょうか?」


 昨日の夜から執拗に僕の脳内で反芻された、その文章がまた頭の中を駆け巡った。だが、僕はそれを脳の奥底へ仕舞い込んだ。


 綺麗とも汚いとも思えない、見慣れた自分の字がノートに並んでいる。

 リビングテーブルの隅にあるすっかり枯れたしまったガーベラは、茎の途中がひしゃげてしまい、ノートの中身を覗くように頭が垂れ下がってしまっていた。


 美咲さんはまだ、ぐっすりと眠っている。純粋無垢な彼女の寝顔は、触れることすらはばかられた。


 リュックを背負って、靴を履く。そして、最後に振り返ってみる。


 さよならガーベラ、さよならシャンプーの匂い。さよなら、夢のような淡い日々。


 ドアを開けるとそこには青白い空が広がり、信じられないくらいのサカナが飛び交っていた。


 僕は右に曲がって、歩き出した。

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