年末のクジラ
僕らの生活は長く続き、そこに終わりという概念は存在しないようだった。毎晩、眠る前にはうつらうつらする頭で現状がただ水平に進み続けることを願って、美咲さんの寝顔を見つめた。
欠けた部分を互いに補う。それは人間の本質的な行為のように思える。神話でだって、科学でだって、生物はいつも対になって安息の地を見出す。本能の赴くままに、互いを補い合う。それが今の僕を満たしてくれる唯一の方法であり、同時に僕の存在を実感させてくれるものだった。
「今、幸せ?」
ある夜、彼女は僕の首に手を回してそう尋ねてきた。少しアルコールが入って赤く火照った顔と、潤んだ瞳が常夜灯の淡い光の中に浮かんでいた。言い知れない不安を抱えた無垢なその瞳は、まるで少女のもののようだった。
「幸せだよ。すごく」
クサいし、恥ずかしい台詞だな。そんな自嘲的な考えが、腹の中で笑っているようだった。それでも、彼女の中にぽっかりと空いてしまった穴を埋めるように、僕は彼女を強く抱きしめた。それこそがこの小さな世界での秩序であった。
夜は毎日一緒に過ごした。クリスマスには、小さなケーキを二人で分け合った。世界で一番安全で平和なこの場所が、愛おしくて仕方がなかった。
それでも、僕の視界の中では常に魚が泳ぎ続けていた。
***
十二月の末、美咲さんの仕事納めの日がやってきた。
空気は冷たく乾いており、人々はすっかりクリスマスから年末年始へと、関心を向ける標的を変えてしまっていた。
「今日、忘年会だから、ごめんね」
美咲さんは僕が手渡した弁当を片手に、家の鍵やスマートフォンをバッグに詰め込んだ。
「うん。晩ごはんは?」
「大丈夫。先に寝ててね」
「わかった」
忙しなく靴を履くと、彼女は振り返った。
「じゃあ、行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
彼女がドアを開けた瞬間、ダムが決壊したかのように、肌を刺す冷たい空気が部屋へと侵入してきた。
ドアが閉まるとそこには、美咲さんが外行きの格好をした時にだけ匂う化粧品や整髪料の香りと、冷たい空気だけが残っていた。しばらくその余韻に浸るように、僕はただドアを見つめていた。
明日から美咲さんの冬休みが始まる。休暇に対する期待。忙しい人の出す雰囲気。湿り気のないストレートな空気。首筋を撫でる微かな寒気。全てに年末の香りを感じる。一年を一つの物語とするなら、これはクライマックスの兆しのようなものだろうか。
もうすぐ、今年が終わる。来年になったら新たな物語が始まるのだろうか。
そんな答えのない疑問を残して、僕は朝食の片付けに取りかかった。
皿を洗おうと水を出すと、その痛みにすら感じられる冷たさに驚いた。あいにく蛇口のどこかを捻るだけで、お湯が出るような機能はこのキッチンには搭載されていない。仕方ないので一度ケトルでお湯を沸かし、冷ました後にぬるま湯で皿を洗うことにした。
午前中は部屋で読書をして過ごそうと考えたが、それまで読んでいた本を昼前に読み終えてしまった。そこで、新たな本を買いに行くついでに外で何かを食べることで、洗い物の手間を省くことにした。
できる限りの厚着をしたのも虚しく、外の空気は一瞬にして僕の全身を冷たい息吹で包み込んでしまった。空はまるで水彩画の背景のように健康的な青さを誇り、葉を落とした木々の輪郭をしっかりと描写している。
雲一つない空には大小様々な魚が泳ぎ、真っ青なキャンバスにアクセントを付け足しているようだった。遥か上空には、大きなクジラのシルエットすら見えた。以前までなら、そこまでのサカナを見ていたらパニックを起こしていたはずだ。だが、今は微笑とともにそれらを見守ってやることすら可能だ。僕には僕の居場所がある。だから、ある程度世界を未知の存在に占領されても、寛大に対応することができる。
駅前の本屋を小一時間歩き周り、選りすぐりの小説を二冊購入した。そして、どこで昼食をとるか悩んだ末に、駅ビルにあるファミレスに行くことにした。理由は、混雑してなさそうだと考えたからだ。
平日のファミレスは実際に行ってみると、意外にも混んでいた。主に主婦や高齢者が多く、ドリンクバーで席を確保している様子だった。
無秩序に発せられる声や、さまざまな食べ物が混じり合った匂い。以前までは何も感じなかったそれらが、少しだけ不快なものに感じられた。
昼食をとったらすぐに店を後にすることを心に決め、僕はパスタだけを頼んだ。
パスタを待ちながら本の帯を読んでいる最中に、事件は起きた。
「あ」
これ見よがしにこちらを発見したというアピールの声を上げながら、男は現れた。今にも目玉が飛び出してしまいそうな大きな目に、尖った唇。声の主は、他ならぬタコであった。不幸なことに、僕はタコの隣に案内されてしまったのである。
「やあ、久しぶり」
そう言いながら、タコはメロンソーダの入ったコップに浮かんだ、ストローを弄んでいる。
「どうも」
騒音によって誤魔化された、比較的気まずさの少ない沈黙が訪れた。できることなら、このまま会話が始まらないで欲しい。
「その後、どうしたのさ?」
「え?」
「癒す存在になったのかい?」
タコは妙に偉そうな口調で、尋ねてきた。
「まあ、一応」
「ふうん。やったじゃん」
「はい」
パスタが運ばれてきたことにより、会話は中断された。たらこソースのかかったパスタはバターが効いていたが、上に乗った大葉が乾いていた。
「俺さ、実家帰るんだよね」
科学的な緑色をしたメロンソーダを一口飲んで、タコは言った。
「なんでですか?」
無視をすると面倒なので、咀嚼にひと段落ついてから彼に質問した。
「もともと実家が田舎の酒蔵でさ、ずっと継ぐように言われてたんだよ。それが本当の俺の顔。だけどさ、自分の力で世間に認められたかったわけ。まあ、こんな体たらくなんだけどさ」
タコは、またメロンソーダを飲んだ。
「これでも自分の力で、社会の歯車になってる充実感はちょっとあったよ。でも親父が倒れちゃったから、そろそろ本業をなさなきゃならんわけだよ」
「じゃあ、もう今の仕事は辞めるんですか?」
「そうさ。このまま暮らしてる方が楽しいさ。だけど今の生活じゃ、未来がないんだもんな」
タコの口調は以前同様に、情緒を演出するような強弱がつけられている。
「気休めは終わりだ。働いてるごっこももうおしまい」
「じゃあもう、お別れですかね」
「そうだな。君は世間の波に負けず、頑張ってヒモを続けてくれたまえ」
店内にはタコの他にも、さまざまなサカナが泳いだり、人の顔にすげ替えられたりしている。自由に漂うサカナや、目の前で揺らめく海藻を見ながら食べるたらこソーススパゲティは、磯の香りが強いように思えた。
全くもって寂しいとは思わなかった。だが、タコの言葉は以前と同様に、僕の心へといろいろなものを運ぶ波のような作用を持っていた。
今自分が抱いている違和感はなんなのか。その答えは今、この混沌を極める昼間のファミレスで手繰り寄せるには、あまりにも奥深くに眠ってしまっている。
だから今は、見ようとしても見ることができない。しかし、いつか何かの拍子でそれが露呈した瞬間、僕はいったい何を思うんだろうか。
***
その日の夜、僕はカップラーメンを食べた。静かで冷たい夜。歯を磨いて、ベッドに寝そべると、静けさがより一層強調されるようだった。
道路を走る車のヘッドライトが、青白い天井に時々動きを与える。それ以外、この部屋に動くものはなかった。時計が秒針を打つ音と、家電から発されるくぐもったモーター音だけが耳に入ってくる。
寒い。一人とは、寒いものだ。僕の世界は、僕といくつかのサカナたちだけでは満たされなくなっている。
しばらく月明かりを受ける天井を見つめていた。すると突然、インターホンの無愛想な音色が部屋に鳴り響いた。
美咲さんだろうか。では、なぜ鍵を使わないのか。
そんな疑問を抱きつつも、僕はひんやりとしたドアノブに手をかけ、ドアを開けた。するとそこには、知らない女性が立っていた。その女性の背後には、美咲さんがぐったりとした様子でしゃがみ込んでいる。
二十代後半くらいの彼女は、切長な目を見開いて僕を見つめた。強いアルコールの匂いが、冷えた風に乗せられて続々と部屋に流入してくる。
「すみません、部屋間違えました」
女性は何を思ったのかそう言って、ドアを閉めようとした。
「いや、間違ってません」
「でも、あなたは」
その言葉の続きが、なんとなく予想がついた。それとともに内臓が突然重くなったような、気分の悪さを感じた。
「弟です。姉がいつもお世話になってます」
「ああ、弟くんか」
女性は美咲さんを部屋に入るよう促しながら、続けた。
「最近彼氏の話ばっかりしてるからさ、彼氏さん家にいたりしてって思ってピンポンしたの。それで随分と若い男の子が出てきたから、びっくりしちゃった」
「たしかに、そうなりますよね」
笑顔から飛んでくる棘には、笑顔を返す。それが秩序を守るためのルールだ。それでも、その棘は深く突き刺さり、自分自身の言葉は、心を微かに縛りつけるようだった。
「よく考えたら、こんな子に手出したら犯罪になっちゃうもんね」
「そうですね」
乾いた空気に、乾いた笑いが飛び交った。胸を縛る何かの力が、より強まるようだった。苦しい。上手く呼吸ができない。上手く笑えているだろうか。しっかり相手の目を見れているだろうか。それすらも判断がつかない。女性の頭の後ろに、小さなサカナが現れた。一匹、二匹、三匹。気づけば小さな群れとなり、サカナたちは空中を忙しなく舞っていた。
美咲さんはベッドの上に倒れ込み、言語になりきれない唸り声を上げている。
「それじゃあ、後はよろしく」
大きな声で、速く喋る女性であった。閉まったドアに残されたその余韻は、今朝のものとまた違い、寂しさが存在しなかった。アルコールの匂いと凍てつくように冷たい空気が残っていたものの、女性がいなくなった後の空気は美味しく感じられた。
「水、水」
ベッドにいた美咲さんが、曖昧な口調で呟いた。
僕は干していたガラスのコップに水を入れて、顔を真っ赤に染めた美咲さんに手渡した。触れ合った指先は冷えており、微かに震えている。大きな音を立てながら彼女は水を飲み、コップを適当な場所に置いた。
夜の静けさが、その存在感を強く主張した。また、時計や冷蔵庫から孤独を想起させる音が聞こえてくる。
「馬鹿」
美咲さんはそう言って、眩しそうな目でこちらを睨んだ。
「どれくらい飲んだの?」
僕の問いに、彼女は答えなかった。
またもや、沈黙がその空間を覆ってしまった。
「馬鹿」
「何が?」
彼女はこちらに見向きもせず、目の前の毛布を撫でて、無意味にもその毛並みを揃えている。
「なんで弟って言ったの?」
小さな声で、呟くように彼女は言った。
「それは、ややこしくなるから」
自分の鼓動が速くなるのが、胸を触らずにでもわかった。
「ややこしくていいじゃん。本当のこと言ってよ」
「ごめん。今度からちゃんと言う」
「そうやって、いっつもわかったって言う。いっつも、うんうんって言って適当に扱う。ちゃんと向き合ってよ」
「向き合ってるよ」
「向き合ってない」
「どこが?」
彼女の目はいつの間にか潤み、薄暗い部屋の中で煌めいている。
「いっつも周りの目気にしてる。人前だと手も繋いでくれない。私がおばさんだから、馬鹿にしてるんでしょ」
「そんなことない。おばさんじゃないし」
「じゃあ、ちゃんと彼氏って言ってよ。でもどうせ、どこか行っちゃうんでしょ」
「どこにも行かないよ」
彼女は声を出して、泣き始めてしまった。言葉とは裏腹に体は僕にもたれかかり、顔から落ちる涙はこぼしてしまった墨汁のように、僕の衣類を暗い色に染めてゆく。
部屋には彼女の泣き声が響き渡り、孤独の音は掻き消されてしまった。
もう、孤独の空間は消えた。だが、そこに温もりはなかった。