クラゲと氷雨
冬なのに、雨が降った。
昼食として余りものの肉じゃがを食べている際、窓に縦長の水滴がいくつかぶつかるのが見えた。そして、僕は急いで立ち上がってベランダに出た。
空は朝から濁った色をしていたが、実際に雨が降るとは朝のニュース番組でも言われていなかったのだ。洗濯物を取り込むために窓を開けると、冷たく湿気った空気が一気に部屋へと流れ込む。
ねずみ色の空からは冷たく細い雨が降り注ぎ、それを背景に半透明なクラゲたちが無機的な動きで上下している。
ここ数日間で、視界に入るサカナがより増えた気がする。以前までは新たなものが出現するたびに脳内から追い出そうとしたり、逆に名前や生態を調べたりなんかもしていた。だが、今では無視してしまうことも多くなった。それがどんな名前のクラゲで、どんな習性があるのか。そんなことは全く気にも留めず、僕は水分を含んでしまった衣類を部屋に運んだ。
昼食をとり終えると、濡れてしまった洗濯物は風呂場で乾燥にかけ、辛うじて雨に打たれず、なおかつ午前中に乾いた衣類だけを畳んだ。
タオルを畳んで、靴下を丸める。暖房の効いた静かな部屋で、無心にその作業を続ける。たまに口笛を吹いてみたりして、畳んだ衣類たちを本来あるべき収納場所に帰してやる。
ふと窓に目をやると、雨足はついさっきよりも激しくなっていた。そんな環境においてもクラゲは何も感じていないような表情で、ただひたすらに重力に逆らっては落ちて、また反発しては戻ってを繰り返している。
予想外の雨だったからなのか、クラゲにあまりにも親近感が湧かないからなのか、窓ガラス一枚しか隔てていないその先はまるで別世界のようだった。
低気圧によって気分が沈む感覚だけが、窓の向こうから雨の存在を伝えにやってきていた。最近、あまり憂鬱な気分にならなくなったようだ。以前までは雨が降ると起き上がることすらできない日もあったが、今日は鼻歌とともに掃除なんてしている。少し変な唸り声をあげるエアコンに、丸まった布団。それら全てに安らぎを感じる。
買い物と散歩以外は部屋で過ごすため、外の世界から隔絶されている感覚を普段から抱いていた。それでも、雨の日はその気分が特別に強く感じられた。往来を行く人々や公園で遊ぶ子どもたちの声、車の音、鳥の鳴き声。全てが雨に存在を隠され、この小さな世界に足を踏み入れることを阻まれている。このなんでもない壁や床、そして天井が、外の空気と僕の空気が無秩序に混ざってしまうことを防いでくれている。そう考えると、余計にこの部屋が愛おしく思えるようだった。
***
夕方になると雨は収まる様子を見せるどころか、粒のサイズはより一層大きくなり、地面や窓ガラスを叩く音が激しくなった。
そんな中、夕食のメニューを考えつつベッドで読書をしていると、美咲さんが傘を持って行っていないことに気がついた。折り畳み傘をバッグに入れているだろうか。そんな考えも浮かんだが、夕食を作る材料も買いに行かないと、まともな夕食にありつけなさそうなので、買い物ついでに駅まで行くことにした。
リュックを背負って傘を二本持ち、家を出た。ドアを開けた瞬間、湿気と濡れたアスファルトの甘ったるい匂いが鼻をつく。
クラゲはいまだに宇宙人のような雰囲気を放ちながら宙を舞っている。広がっては収縮する半透明な傘に、フリルのリボンのように飾られ、波打つように揺れる口腕。本来は共存しないはずの雨とその群れたちは、不思議なほどに調和していた。
だが、現実的に考えておかしいからなのか、シンプルにクラゲの毒が怖いからなのか、その光景は少なからず不安定なものを孕んでおり、見ていると落ち着かない気分になった。
ビニール傘をさしてマンションから出ると、クラゲの仲間入りをしたように思えた。最初はクラゲにぶつかることを恐れてゆっくりと歩いていたが、向こうが道を譲ってくれることが判明してからは、自信を持って歩くことができるようになった。普段の生活においても、変に意識すると空回ってしまい、何も上手くいかない上に気疲れしてしまうことがある。クラゲの中を歩くということも、それに分類されるようだ。恐れず、胸を張ってまっすぐ進むことで、何にもぶつからず、足を進めることができる。
よく使うスーパーは、家と駅のちょうど中間地点あたりで居を構えている。時間も時間で入れ違いになると面倒なので、とりあえず駅へと向かうことに決めた。
駅に近づくに連れて、すれ違ったり、並走したりする傘の数が増えた。クラゲの群れを切って歩くのにはすっかり慣れたが、人の近くを歩くのは少し緊張した。変に思われていないだろうか。知り合いに会わないだろうか。そんな不安が別の傘とすれ違うたびに、心の中に芽生えた。
幸いなことに傘で相手の目が見えることはほとんどない。だが、見えないからこその恐怖というものも、この世には存在する。
冬の雨は珍しい。
人に対する不安とともに、そんな思いが脳内における循環の一部分を担っていた。傘をさしているとはいえ、四肢の先端が濡れることは避けられなかった。冬の雨は氷雨というらしい。まさにその通りだ。傘を持たない方の手は冷え切り、指は赤く染まった。靴は微かに水を含み、歩くたびに足の裏の熱を奪った。
***
ひたすら外に流出してしまう体温、震える手、うるさいくらいに激しい雨音、それに分厚い雲に覆われた空。氷雨は、梅雨の雨よりも人の気分を沈めてしまうようだ。どれだけ歩いても、視界には湿った黒いアスファルトと水を弾いた白線、濡れて色の濃くなった灰色のスニーカーだけが映る。
天候のためか霞がかかってしまっているのも相まって、眼前にてモノクロームの映画が上映されているようだった。だが、左手に持つ水色の傘が時々そこに映り込み、世界に色彩をもたらしていた。
美咲さんは今、何をしているんだろうか。まだ会社だろうか。それとも電車に乗っているんだろうか。入れ違いにならないといいな。次第に不安や孤独感のループの輪に、そういった何気ない思いが仲間入りした。
美咲さんが僕を待っている。
少し子どもっぽいが、そう思うだけで僕は自分を鼓舞することができた。そう考えるだけで、人の多い駅前へと足を進めることができた。
***
駅に着いても、雨が止みそうな気配はしなかった。傘をさすために立ち止まったり、誰かに迎えを頼むために電話したりする人で改札前は混み合っていた。さらに、傘というフィルターを失ったことでより多くの人と目が合うようになってしまった。
怖い。
美咲さんを探しながら、そんな思いが胸の中で広がった。それとともに、自分が最近いかに人々から距離を置き、安全な場所でぬくぬくと暮らしていたかを痛感した。
水色の傘を握り締めた。この傘が、僕とあの家とを繋いでくれている。僕をこの世界で宙ぶらりんにならないように、繋ぎ止めてくれている。
定期的に人の波が押し寄せる改札前で、僕は傘を握る感覚だけに集中しながらまっすぐ立ち続けた。時刻は六時前。もうすぐ美咲さんが帰ってくる。それだけを頼りに、人と雨の匂いが漂うその場所に立っていた。
十分ほど経過すると、見覚えのある横顔が改札から出てきた。
「美咲さん」
僕はそう言って、彼女のもとに向かった。
「どうしたの、こんなところで?」
彼女は驚いた表情を見せたが、その顔はすぐに笑みへと変わった。髪はすっかり濡れており、顔に張り付いていた。それでも彼女の笑みは、見ていると人を落ち着かせる力があった。
「迎えに来た」
「本当に?」
「うん」
「よかった。コンビニで傘買うかタクシー乗らなきゃって思ってたんだよ。でもどっちも高いしね」
「入れ違わなくてよかった」
「たしかに。ちゃんと会えてよかった」
彼女の声を聞くと、乱れていた心は落ち着きを見せた。水を吸ってしまった靴なんてどうでもよくなった上に、帰り道で誰とすれ違っても、動じない自信すら湧くようだった。
隣に美咲さんがいる。その事実だけで外の世界への不安は消し飛び、晩ごはんの献立や、家に帰ったら風呂場に干した洗濯物を畳まなければならないことなど、牧歌的な内容ばかりが脳を満たした。
「晩ごはんの買い物、して行ってもいい?」
駅から家に向かう最中、僕は雨音に掻き消されないよう、大きめの声で尋ねた。
「いいよ」
彼女も、少し大きな声で返す。
「何がいい? 晩ごはん」
「うーん」
「なんでもいいはなしだよ」
彼女は少し悩む様子を見せた。
「もう遅いし、カップラーメンでいいよ」
「家にあるやつ?」
「そう。たまにはいいんじゃない? 早く帰らないと風邪引いちゃうよ」
スーパーに立ち寄らない分、少しショートカットをして家へと向かった。
そんな中、雨が嫌いな一番の理由をふと思い出した。雨は、全ての曖昧な距離感に区切りを与えてしまうのだ。家にいれば外の世界と区切られてしまうし、外に出れば傘で他の人とのコミュニケーションが困難になってしまう。中途半端な状態で放っていたものに、全て白黒をつけてしまう。雨の中では、グラデーションは許されないのだ。それを思い出すとともに、以前までは自身が他者との交流を求めていたことに気づき、少しだけ驚いた。
雨は音も視界も遮断し、人を世界から閉じ込めてしまう。普段は寂しいけれど、今は全く孤独感が湧かない。雨によって作られたこの空間には今、美咲さんがいる。いつもは一人ぼっちでも、今は二人の密室だから寂しくない。二人っきりだからこそ、温かい。
互いの傘が当たらないように、距離を置いて並んで歩いた。もちろん、手を繋ぐことなんてできない。彼女の顔のほとんどは、水色の傘で隠されている。それでも、僕の心は孤独に支配されなかった。何も言わなくても合わさる歩調、示し合わさなくても同じ方向へ向かう足。クラゲと氷雨に囲まれながら、僕らは二人、手を繋ぐよりも深く繋がっている。そんな気がした。
家に着くと、まず風呂に入った。そして、美咲さんの提案で互いにドライヤーで髪を乾かし合った。
「迎えに来てくれて、よかった」
僕に髪を乾かされながら、彼女はそんな言葉を呟いた。美咲さんの髪に暖かい風が当たるたびに、甘いシャンプーの匂いがこちらに返ってくる。
「そんなに節約したかったの?」
「ううん、違うの。雨の中一人で歩くのって、すごく寂しくない?」
彼女は同意を求めて、肩越しにこちらを見た。
「たしかに」
晩ごはんにカップラーメンを食べた後、一緒に洗濯物を畳んだ。そしてテレビを少しだけ見て、布団に入った。
窓の外では、まだ大粒の雨と尾の長いクラゲたちが舞っている。
僕らは深い海の底で、互いに手を取り合いながら歩いているんだ。光も届かない場所で、互いの息遣いや温もりを頼りに歩いてる。そんな確信が、僕の胸に生まれた。
いつまでも、こうしていたい。
暗い天井を見つめながら、そんな思いが胸の奥から滲み出てきた。