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こたつとクマノミ

 目覚めると、そこには女性の寝顔があった。


 無防備に閉じられたまぶたには、長いまつ毛が綺麗に揃っている。無邪気に発される息は、僕の首元をくすぐる。腕はこちらに伸び、僕の腰元に無造作に置かれている。


 その白い腕を静かに退け、僕は天井を見つめた。


 冷たく乾いた空気に顔が晒されている一方で、体は暖かい布団と適度に柔らかなマットレスに包み込まれている。それに加えて眠気と頭痛が相まって、布団から出ようとする意思が不安定にさせられているような気がする。曖昧な意識のまま時計に目をやると、短針が十を指そうとしていた。


 「おはよう」


 隣で彼女がそう言って、微笑んだ。まだ力の入っていない目が、こちらを見つめる。


 「おはよう」


 僕はそう言って、口角を上げた。


 熱と痛みが膨張して、頭の裏側から圧力をかけてくる。そんな感覚が常に重い頭の中を支配している。頭痛によって起き上がることができず、しばらく天井を見つめていた。

 別に何かが辛いわけではない。だが、起床した瞬間の憂鬱な心持ちがその日は特に強く、気持ちを切り替えるのに時間を要したのだ。


 ある程度頭が覚醒すると、やっと僕は起き上がることができた。部屋はいつも以上に海の生物で埋め尽くされ、イソギンチャクやフジツボまで床や机から顔を覗かせている始末であった。


 朝食としてトーストと目玉焼き、ウインナー、それと切ったトマトを、つい最近コタツに組み替えられたリビングテーブルに並べた。


 いつも通りの週末の朝。いつも通りの距離感。それとない会話。たとえ頭が痛くても、気持ちが沈んでも、その日常を保たなければならない。それがこの世界で僕が生きる唯一の道であるから。


 「バイト、始めようと思うんだ」

 「へえ」


 鼻声気味の僕の言葉に対して、彼女はあまり関心を示さなかった。


 「冬休み、明けてからでいいんじゃない?」

 「なんで?」

 「ちゃんと休まなきゃ」


 深い意味もなく、ただ互いの気持ちを確認するように二人で微笑を向け合った。彼女は大きな笑いはあまり見せないものの、よく上の歯を少し見せて、こちらの瞳を覗くような目をして微笑む。それを向けられると、自分も笑わなきゃ、という思いが湧いてくる。


 食事を終えると、頭痛が再び存在感を主張するようになった。定期的に痛みの波が側頭部を襲い、目の前のものが踊るように揺れる。そのことを話すと、美咲さんは半ば強制的に僕をベッドに寝かせた。


 白い天井には種類が判然としない小さなサカナたちが、群れを成して泳いでいる。その群れは、メトロノームのように規則的なリズムをとりながら、円を描いている。白い背景に、機械的に回る焦げ茶色の円。朦朧とする意識の中でその簡素な光景を見つめていると、いつの間にかそこに安らぎを覚えるようになった。


 シンクに水が落ちる音と、食器同士がぶつかり合う甲高い音が耳に入ってくる。鼻腔には香水や柔軟剤が混じり合った、甘い匂いが広がる。目が落ち着きを取り戻した一方で、他の感覚はいまだに混乱しているようだった。

 美咲さんの望むこと。それを第一義として、この数日間を過ごしてきた。だが、この不自由な状態ではそれすらもできなくなってしまった。


 今僕は、ただのお荷物になっているんじゃないだろうか。

 彼女は今、僕を邪魔だと思っているんじゃないだろうか。


 不安やプレッシャーが心の底から湧き出て、妙に冷たい汗が額と脇に浮かんでくるのがわかる。だが、彼女が僕に今望むことは、他ならぬ寝ていることであるのも事実だ。

 どうにか焦燥感を心の外に追いやって、まぶたを閉じた。目を瞑っても、完全な暗闇にはならない。まぶたを透かす光や、先程まで視界に映っていたものの残像がそこに居座っているのだ。


 もやのかかった眼前の光。柔らかなマットレスに体が沈む感覚。似ている。あの日落ちた、水の中に。受験に失敗した日、自然と海に落ちてしまうビジョンと、全身が生暖かい潮水に浸されてしまう感覚が湧いてきた。全て脳内からくる妄想でしかなかったのに、僕の脳はそれを経験として記憶していたようだ。力を抜くとその錯覚はさらに増し、現実と空想の境目が薄らいでゆくようだった。


 そろそろ潮時だろうか。


 水面に頭を出す泡のように、そんな思いが浮かんだ。そして、瞬く間に破れてしまった。僕にとっても、それは不意に起こった考えであった。今の生活には不自由していない。むしろ、厚遇過ぎるくらいだ。ではなぜ、そんな思いが一瞬でも目の前にある広漠とした暗闇から、突然顔を出したのだろうか。ただの頭痛によるうわごとかもしれない。だが、遠のく意識の中で深層心理と接触したのだとすれば、気にしないわけにもいかない。もし深層心理なのだとしたら、なぜそんな感情が浮かんだのだろうか。僕の心はまた、何かを拒絶しようとしているのだろうか。


 さまざまな不安に襲われながら暗闇で足掻いているうちに、僕は眠りという真の暗闇に呑み込まれてしまった。


 ***


 目を開けると、もうそこには小魚の群れはいなかった。一方で頭痛はまだ僕の中でうごめいていたが、いつまでも寝ているわけにもいかない。枕元のデジタル時計は昼前を指している。

 僕はその場に自分という存在がいることを確認するように、ゆっくりとフローリングの床に足をつけ、立ち上がった。


 「具合、大丈夫?」


 コタツに入って何かの作業をしていた、美咲さんがこちらに振り返った。いつもと違い、その顔には眼鏡がかけられている。


 「うん」


 喉が絞られたような痛みに襲われ、思ったように声が出なかった。

 一歩一歩踏みしめるように足を進め、僕はキッチンに向かった。そして、水切りラックで逆さにされていたコップを手に取り、水道水で喉に潤いを与えた。


 「何してるの?」


 流し台に寄りかかりながら、僕は美咲さんに尋ねた。流し台の金属部分によって、手のひらと腰元にひんやりとした感覚が伝わる。


 「うん? ああ、年賀状書いてるの」


 陽光の差す窓を背にして、彼女はコタツに入っている。その姿は逆光によって黒いフィルターがかかっているようだったが、優しい笑みを確認することができた。コタツの上には赤いガーベラを入れたコップと、乱雑に広げられた数枚の年賀はがきがあった。


 暖房という文明の利器があるにもかかわらず、美咲さんは厚着をして、コタツに籠った熱を逃すまいと体をリビングテーブルに密着させている。時代錯誤なその光景はさも当然のように広がっており、こちらの価値観が間違っているように思えてくるような、自然さがそこにはあった。


 「なんで暖房つけないの?」


 僕はそう問いながら、美咲さんの反対側に座った。


 「布団に暖房じゃ寝汗かいちゃうでしょ」

 「そっか」


 仕事に行く時はもちろん、美咲さんは少しの外出でもいつも身なりに気をつけて、家から出る前にはクローゼットと鏡の前から離れる気配をしばらく見せない。家の中でも小綺麗な部屋着を毎日替えており、妙なところで意識を高く持っているようだった。そんな彼女が今、スウェットに綿入り半纏まで着込んでいる。それも僕のために。


 抜け殻となったベッドに目を向けると、シワの寄ったシーツと丸まった布団がそこにはあった。生物の温もりが残るその光景には、なんの面白みもない。だが、僕はそこからしばらく目を離せずにいた。


 男女が向かい合って時間をともにする時には、多少の違和感や不満を表に出し、ぶつかることができる。一方で、人と人が並んで長い時間をともにする時には、互いに対する尊敬と譲歩が必要になる。そんなことは言われなくてもわかっているつもりだ。だが、そんな思いが突然胸の中で芽生えて、膨れていくようだった。


 少しの間、沈黙があった。彼女は集中して年賀状を書いている。僕は水を一口飲んで、暖房をつけた。


 「なんで年賀状なんて書くの?」


 やっと本調子を取り戻した声で、僕は質問した。


 「毎年書いてるから、習慣になっちゃってるんだよね。ちょっと時代遅れって感じもするよね」

 「別にそんなことが言いたいんじゃないって」

 「わかってるよ」


 美咲さんはイタズラっぽい笑みとともに、顔をはがきからこちらに向けた。


 「こんなの出す必要もないし、もらいたい人も少ないと思うよ。メールでもするのが手っ取り早いよね。でもさ、現代って全部機械とか遠隔とかで済んじゃって、たまに不安にならない? 人の温もりを感じられないというか、宙に浮いちゃってるというか」


 彼女は作業を続けながら、話し続けた。


 「だから、これを書いてるのかもしれない。そうやって自分がこの世界にいる主張をして、みんなから返してもらって、自分の存在とか居場所が証明される、みたいな。一人暮らししてるとね、年賀状が来ただけで癒されたりするんだよ」


 美咲さんは、僕と同様に家族と上手くいっていない。だから、年末年始も実家には帰らないそうだ。そのことを以前、彼女は毅然とした態度で話してくれたが、はがきを書く彼女の手元にはどこか寂しさが漂っているようだった。


 僕らは今、どこか欠けた不完全な状態にある。それを埋めるために僕らは、自らの欠けた箇所をどうにか研磨して、互いに沿った形になろうとしているのかもしれない。それこそが、どこか欠けてしまった人間の宿命なのだ。


 部屋の隅にあったイソギンチャクには、クマノミが住み着こうとしていた。

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