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波打ち際のナポレオンフィッシュ

 週末、美咲さんに連れられて海に来た。


 海にしばらく来ていなかった僕の脳内では、海というもののイメージはいつの間にか白い砂浜とそこを歩く水着の人々、そして鮮やかな青い海というものに占領されていた。


 一方で、現実の海はなんだか残念な雰囲気を放っている。湿った土のような茶色い浜。味噌汁をひっくり返したような、透明感のない波。空には野生的な声を上げるトンビが滑空している。冬ということもあって辺り人はほとんどおらず、波の音ばかりが広い浜に響いていた。


 一貫性のないリズムで寄せては返す波を見ていると、胸の奥が落ち着きをなくしてしまう気がする。


 波は人の心に似ている。ふと、そう感じることがある。時には優しく、人を喜ばせたり包み込んだりする。しかし、時には荒々しく、浜に立つ人々を呑み込もうとするのだ。浜辺に立つ僕らはそんな波の動きに終始注意を払い、衣類を濡らさないようにしなければならない。


 自身のペースで相手の足元を濡らしたり、突然去ってしまったり。勝手に期待したり、失望したり。


 幼い頃からそれが恐ろしくて、僕は相手に対して凪いだ海を装うことで、諍いを避けて通る道を選んできた。波風を立てるという言葉があるが、まさにそれから逃げて人と接し、相手からも強い波が来ないようにしていたんだと思う。


 感情という波に呑まれないように、親や先生の言うことは素直に聞いた。友人から何か誘いを受ければ、それに快く参加した。頼みごとをされれば笑顔で受諾したし、言われてないことでも暗に求められているのを感じ取ったら、その願望に応えた。


 「できるだけ明るく、できるだけ素直に」


 そんなことを常に脳裏で唱えていた。それが上手く生きるためのモットーであり、怖い思いをしないおまじないであったから。


 少し抜けているけど、意外に真面目。それがノリのよさを重んじる学校と、学歴を求める家の中との間を、上手に綱渡りするための折衷案であった。


 ある程度は狙い通り器用に生きてきていた。受験だって、どうにかその調子で乗り切れると思っていた。

 兄はできるのに、なぜお前は無理なのかと問われれば、笑って愛嬌を振りまく。兄と同じ大学を目指すのかと問われても、まるでその気なんて毛頭ないように自虐する。


 それでも、家では必死に勉強した。自分の居場所を失わないために。そんな日々だったが、本当は誰よりも自分ができないことに苛立ち、兄の華やかな軌跡を辿りたくて仕方がなかった。しかし、そんな思いは何一つ昇華されない形で、結果が返ってきた。


 全神経を尖らせて空気を読んできた努力も、そこから見出した人の懐に入る力も、全てが無駄で愚かしいだけだったことを証明されたのだ。世間の需要とは、波と同様に自分勝手なものだと思い知らされた。


 だから僕の心は、波打ち際のない深海に沈んでゆくことを決めたのだろうか。


 水面から遥か上空を泳ぐナポレオンフィッシュが目に入り、そんな思いが胸の中でおもむろに揺れていた。


 もう浜辺に立つのは、疲れてしまったのだ。


 適当に弄んでいた湿った砂を握りしめ、それを無意味に地面へと散りばめる。そんなことを何度か繰り返して、僕は立ち上がった。


 「飽きちゃった?」


 隣に座っていた、美咲さんが尋ねてきた。その瞳は海の向こうで輝く太陽に照らされ、茶色く染まっている。


 「ううん」


 僕はそう返したのに、美咲さんは立ち上がった。そして、でこぼこした足元に気を遣いながら、ゆっくりと歩き始める。

 てっきり帰る準備を始めたのかと思ったが、彼女は波打ち際でその足を進め続けた。


 「なんで海なの?」


 数メートル先を歩く、小さな背中に声をかけた。


 「うん」


 彼女は振り向いた。そして、返答に困っているのを隠すように口角を上げた。


 「なんかわかんないけど、好きなんだ」

 「海が?」

 「そう、冬のね」


 僕は彼女の考えが理解できなかった。普通、海といえば盛況している夏のイメージを思い浮かべる。だが、冬の海はまるで押し入れに詰められた扇風機みたいに、用済みのレッテルを貼られていようなのだ。


 「夏じゃ駄目なの?」

 「できればね」


 美咲さんはまた足を止めて、振り返った。


 「あ、もっといい感じのところ行きたかった?」

 「いや、全然」


 再び彼女が歩みを進めて、沈黙が訪れた。大きな波の音と、トンビの声だけが僕の耳を満たす。


 「なんかさ、水平線が好きなんだ。海の向こうにはいろんな国があって、肌の色とか言語とか、あと、歴史も違う人とかが暮らしてるわけでしょ。じーっと海の方を見てると、そんなこと考え始めちゃって、自分がちっぽけに見えるでしょ? だから、人がいない冬がいいんだと思う」


 どこかで聞いたことのあるような言葉が、そこに詰まっていた。


 大きなものに直面して不安にならないその姿勢が、僕と異なっている。目の前にある背中は、どこか別世界から映り込んだ蜃気楼のように、儚く揺らいでいるようだ。


 足を止めて水平線に目を向けると、遥か彼方の太陽による温もりと冷ややかな潮風に撫でられて、不思議な感覚がした。


 空気によって太陽の白い光が拡散された青空には、アクセントとしていくつかの雲が散りばめられている。まるで絵画の額を外して、閉じ込められた風景を溢れさせたような眺めであった。だが僕の目には、太陽に煽られたナポレオンフィッシュのシルエットが、そこに墨汁を垂らしたような染みを作っているように映った。


 ***


 日が低くなって辺りが橙色に染まり始めた頃、僕らは帰りの電車に乗り込んだ。車内の平らな床を踏むと、靴の裏はすっかり砂に満たされて、滑りやすくなっていることがわかった。


 電車に揺られている間も、会話は続いた。話題はもっぱら晩ごはんの話で、それを幹として枝が伸びるように、何度か脱線しては本題に戻りを繰り返した。何を食べるか煮詰まらないまま何駅か過ぎて、最終的には外食という結論に至った。


 家の最寄駅で下車して、どこで食べるかでまた一悶着あり、ファミレスに行くことになった。休日の夜だからか、店内は混雑している。二人で向かい合って座り、何を食べるかめいめいにメニューを見る。注文後にはどちらが先にドリンクバーを取りに行くか相談し、美咲さんが先に席を立った。


 改めて考えるとこれまで、常に美咲さんは僕の隣にいた。向かい合って座ったことなんて、片手で数えられるくらいしかないのだ。そんなどうでもいいことを考えていると、美咲さんが帰ってきた。


 所詮どうでもいいこと。されどどうでもいいこと。


 自分の飲み物を入れて美咲さんの正面に座ると、なんだか落ち着かない気がした。


 丸い目元、決して高くはない鼻、薄い唇。それら一つ一つの微かな変化が、いつもよりも鮮明に感じられる。


 「結構いるんだね。カップル」


 美咲さんの言葉を受けて辺りを見渡すと、確かに男女二人の客が数組いた。


 「わかんないよ、きょうだいとかかも」

 「たしかに。うちも同じか」


 彼女は笑った。少し細くなる目、横に広がる口。笑うと薄っすらと、口の横にエクボが浮かぶことを、その瞬間初めて知った。


 目の前に美咲さんがいる。その意識は水槽に落とした絵の具のように、僕の心の中で薄くなりながらも、ゆっくりと広がるようだった。


 ***


 晩ごはんを食べ終えると、店内が混んでいることもあってすぐに外へ出た。


 寒いという感覚の後に、呼吸の心地よさをわずかながら感じた。夜の帳が下りた街は、冷たく澄んだ空気で満たされている。


 コンビニでデザートを買って駅からしばらく歩くと、空気の純度がより高くなったように感じる道に出た。人通りも車通りも少なく、どこを歩いても誰にも咎められない。歩いていて愉快な道であった。それでも僕らは、寒さや夜の静けさから身を守るように、寄り添って歩いた。


 「冷たくないの?」

 「何が?」

 「手」


 彼女はそう言って、僕の荷物を持っているため、空気に晒された手を見た。


 「まあ、大丈夫」

 「今度手袋買ってあげるよ」


 横をみると、彼女の頭がある。そして少し目線を下げると、彼女の横顔がある。そんな光景を眺めていると、こんなに至近距離で彼女と歩くのも、初めてな気がした。


 「いいよ、悪いし」

 「いや、見てて寒そうなんだもん」


 そんな会話をしつつ、彼女も手袋をしていなかった。


 ゆっくりと歩調を合わせて、並んで歩く感覚。真横から聞こえる馴染みのある声。時々触れ合う互いの手の甲。


 全て知ってる。


 彼女という波は今、僕の足をその温い水で浸している。


 「じゃあさ、こうすればいいね」


 持っていたビニール袋を反対の手に持ち替え、冷え切った方の手で彼女の指先を捕まえる。そして、細い指から少し厚みのある手のひらまで、その触れる面を増やす。微かに残っていた互いの温もりが交わって、冷たくなった手と手を温めるのを感じる。


 こちらを見上げた彼女に向けて、僕は口角を上げて見せた。


 彼女の手が、おもむろに僕の手を握り返す。

 これが彼女の願望だったのだろうか。これが僕らの、あるべき形なのだろうか。


 そんな思いを抱きつつも、繋がってしまった手はもう、互いの合意がなければ解けないものになってしまった。


 僕という波は今、彼女に向かってどのように流れているのだろうか。

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