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タコとの遭遇

 午前十時、日光に顔をくすぐられて僕は目覚めた。


 見知らぬ天井に、馴染みのない柔軟剤の香り。そして、マンボウのいない部屋に違和感を覚える。だが脳が正常に働き始めると、ここが以前までの家ではないことに気づき、落ち着きを取り戻した。


 部屋には誰もおらず、宙に舞う埃のみが日光に照らされて姿を露わにし、視界に動きを与えている。部屋にはベッドとリビングテーブルと、テレビしか家具がない。それでも雑貨類が部屋の各所に散りばめられているからか、部屋に人の温もりが感じられる。


 全体的に茶色で統一された部屋の空気に、一輪の赤いガーベラが浮かんでいる。花瓶がないことからガラスのコップに入れられた花は、太陽に見つめられて憂いのある妙な表情を浮かべていた。


 大きなため息を吐くとともに上体を起こすと、リビングテーブルの書き置きが目に入った。メモの切れ端には、ガーベラを入れたコップによる歪な影が被さっている。


 「仕事に行ってきます。朝ごはん好きなものを食べてね。」


 一本一本の線が乱雑なものの、全体的に均整のとれた字で書かれていた。


 美咲さんの字って、こんなのなんだ。


 回らない頭の中で、そんなコメントだけが出てきた。そこにはそれ以上の意味合いはない。

 寝袋一枚で寝たせいで痛む腰をさすりながら、とりあえずキッチンの状況を確認してみる。キッチンはあまり使われていないのか、シンクに溜まった食器を除けば比較的清潔であった。冷蔵庫には昨日の夕食に使った鍋の残りものの他に、卵やバター、それといくつかの調味料が入っている。


 トースターの上に乾き気味の食パンがあったので、僕はトーストにバターを塗って、朝ごはんとすることに決めた。


 酸味のきついオレンジジュースを飲み、トーストを食べていると、あることに気がついた。この空間に、サカナがいないのだ。家や街では嫌というほどに視界を埋めていたサカナたちは、いつの間にか消えていた。マンボウはおろか、サバもアジもハゼも、そこにはいない。


 視界に入る海にまつわるものといえば、水族館かどこかで買ったようなペンギンを模したボールペンだけであった。


 無意味に動く、生臭い障害物が消えた。視界は以前よりも良好になり、見たい物が隠されているというストレスも解消された。何もかも快適になった世界は、何に視線を移しても楽しかった。


 素っ頓狂な目に四六時中見つめられることはなくなった。そう思うとトーストの香りが、ほんの少しだけ心地よいもののように感じられた。


 ***


 その日の昼下がり、僕は公園でタコに出会った。タコと言っても、ただのタコではない。体が人間のタコだ。


 朝食をとり終えた僕は暇を持て余し、適当にテレビを見ていた。本を読んだり、持ってきた荷物を確認してみたりしたが、心はサカナが消えた喜びから落ち着きをなくし、何にも集中することができなかった。


 そんな状況では時間を浪費してしまうだけであることに加えて、昼時も近いことから、気分転換のために昼食を外で食べることにした。昨晩ここに来るまでの道中に公園があったので、コンビニでサンドイッチを買い、ベンチでゆっくりと昼食の時間を過ごした。


 公園は広く、芝生を囲うようにジョギングコースが設置されている。平日の昼間ということもあり、公園にいるのは健康意識の強い高齢者と、小さな子どものいる親子ばかりであった。


 背の高い建物が周りにないことから温暖な太陽の光が直接差すので、季節の割には快適に過ごすことができる。視界にはサカナなんて全く入らず、冬の木々や芝生特有の、黄土色や茶色の混じるセピア調に加工されたような、緑色ばかりが広がっている。


 顔に照る太陽の光や、目の前を通過する人々の声がなんだか心地よかった。サンドイッチを食べ終えてもその場が名残惜しくて、僕は自動販売機で温かいミルクティーを買って、しばらくそこで過ごした。


 そんな最中に、僕はタコに出会ったのだ。


 「君、高校生?」

 「え?」


 突然話しかけられて隣のベンチを見ると、そこにはシルエットの不恰好なスーツを着た男が座っていた。奇妙なことにその首の上には、人間ではなくタコの顔が載っている。


 タコはなぜこんな時間にこんな場所にいるのか尋ねてきた。


 僕は大きなショックを受けて、しばらくまともに返答ができなくなってしまった。それはタコに話しかけられたからではない。治ったと思っていた謎の病が再発してしまったからだ。


 「今、浪人中なんですよ」

 「ふうん」


 僕が必死に答えたのとは裏腹に、タコは適当な返答をした。


 「その割に、気楽そうじゃん」

 「そんなことないですよ」


 一瞬、会話が途切れた。


 「あのう、あなた誰なんです?」


 僕の問いに対して、タコはぽつりぽつりと、詩を読むように気取った声で答えた。


 話によるとタコは、企業の営業部に勤めているらしい。だが、今は勝手に昼休みを延長して時間を持て余しているそうだ。そんな中で、同じく暇そうにしている僕を仲間だと考えたという。


 意味がわからない。


 「こんなところで日向ぼっこなんてして、親に怒られないわけ?」

 「いや、親と暮らしてないんで」

 「へえ、じゃあ一人暮らし?」


 美咲さんの家に住まわせてもらっていることを言うには、多少なりとも抵抗があった。そして、別に今後会うこともないであろう相手に対して、本当のことを言う必要はなかった。だが、この本当のタコのようになんでも張り付いて質問してくる男の前で、嘘によって矛盾が生じてしまうと面倒なことになりそうなので、僕は全て正直に話した。


 「女の人と二人で暮らしてるの?」

 「はい」

 「いいなあ、俺もヒモになりたい」


 その瞬間、目の前を通過する老人の顔がサカナに変わった。


 「そんな寄生目的じゃないんで」

 「ふうん。でも世間からしたら、ヒモっぽくない?」

 「ただ、一時的に住まわせてもらってるだけです」


 嘘をついているつもりもなければ、虚勢を張っているつもりもない。本当に美咲さんとは、世間が思うようにやましい関係にはない。僕は以前にも、家出を図ったことがあった。その際は今回よりも感情的なものであり、全く計画性もなく家を飛び出した。資金もなく、居場所もなく、昼間は図書館で時間を潰した。そこで出会ったのが、美咲さんだったのだ。


 美咲さんは僕が弟と同い年であるということから心配になり、声をかけてきたそうだ。彼女の親切心から生まれた、とても清らかな関係である。まるで姉弟のように気軽に話し、信頼することができた。そのためか、美咲さんへ特別な感情を抱いた瞬間はこれまでに一度もなかった。


 「それって、彼女さんに得することある?」

 「彼女じゃないです」


 次の瞬間、目の前にカサゴが現れた。


 「まあまあ、それはどうでもいいけどさ、その人は本当に君から何も求めてないの?」


 タコとの会話はこれ以上となく億劫なものであった。その口が開かれるたびに、視界にサカナが増えていく。


 「そのままだと、世の中からすればヒモになっちゃうよ。これ、忠告ね」

 「こんなところで、油売ってるような人に言われたくないです」

 「君も言うねえ」


 タコは無気力そうな口調で続けた。


 「君からしたら俺なんてしょうもないやつかもしれないけど、どうにかして社会の歯車の一環として生きてるんだよ。何もせずにお姉さんの優しさに縋ってる君よりは、少なくても人の役に立ってる。まあ別に自由だけどさ、果たして世間は今の君を認めるのかね」


 世の中、世間、社会。そんな言葉ばかりが並ぶタコの言葉に、眩暈がする。


 世間ってなんだよ?


 そんな疑問が頭を過った。だが、白昼から未成年相手に説教をして悦に浸る彼の機嫌を、損ねるのはあまり好ましい選択肢のようには思えなかった。僕にとって人が感情を露わにする瞬間に出会すことは、自分の中に芽生えた対抗心や疑問を、ねじ伏せることよりも、よっぽど避けたいことだったのだ。


 「どうなんでしょう、難しいですね」


 僕はそう言って、口角を上げた。


 ***


 一般論、世間、世の中、みんな、社会。そんな言葉が、どこへでもついて回ってくる。不定形で不確実なのに頭の中に居座るその存在は、あの家から出てもなお、僕の体を縛り上げて蝕み続けた。


 そんなもの捨てて生きようと決めたにもかかわらず、タコに植え付けられた種はいつの間にか芽を出して、その太く長い根を僕の胸の奥底まで伸ばすようだった。


 公園から帰る道は、とても長く感じた。

 美咲さんは、僕に何かを求めている。僕は、彼女に何かを期待されている。


 僕は今、世間というものに否定される立場にいる。

 そう思うと突然、背中に虫が這うような寒気がした。すれ違う人々の顔についた、ビー玉のようなサカナの目がこちらを見る。


 怖い。怖い。


 僕を突き放した世の中は、なぜなのか今度は僕に介入してくるようになった。上空に巨大なイワシの群れが突然現れ、大きな影が僕の全身を呑み込んだ。


 その日の夜、僕は美咲さんのために晩ごはんを用意した。料理のレパートリーはあまり持ち合わせていなかったので無難なカレーに逃げてしまったものの、美咲さんは喜んだ。二人でカレーを食べている時も、二人でテレビを見ている時も、彼女はことあるごとに笑ってくれた。


 僕はその間、彼女の瞳を見つめ続けた。その裏に、何が隠れているのかを探るために。

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