マンボウの家出
マンボウは、とても異様だ。
だだっ広い体に、胡麻のように小さな目。ビート板を横に立てて水に沈めたような平たい体。船の帆と舵のような上下のヒレを器用に使って狭い水槽を泳ぐ様。
マンボウは、その同じ地球に生まれたとは思えないフォルムから人間にはあまり好かれていないように思える。食用にしても、好き好んでマンボウを食べる人はなかなかいないし、観賞用にしても、水族館ではチンアナゴやダイオウグソクムシと違って、変な生き物なのにぞんざいに扱われているように思える。
それでも、小さな水槽で間抜けな瞳をこちらに向けるマンボウは、幼い僕を魅了していた。小学生の時には、みんながキャラクターにもされている有名で無難な形をした魚に見入っている中で、僕は水槽に浮かぶ、その奇妙な体を見つめていた。
そして今、僕の部屋にマンボウがいる。
右を見てもマンボウ、左を見てもマンボウ。ベッドの上でも、机の上でも、どこを見ても巨大なマンボウの体が視界に入る。彼は僕の小さな部屋を埋め尽くしながらも、悠然と壁際を泳ぐことはやめず、ただひたすらに素っ頓狂な瞳で僕を見つめ続けていた。
だが、そんな同居人とも今日でお別れだ。
寂しくなるな。
大きめのリュックに最低限の衣類を入れながらマンボウを見ると、そんな感慨が心のどこかから湧いてきた。
今日僕は、家を出る。この無駄に広くて静かな水槽から、誰にも見送られずに抜け出す亡命者となるのである。シャツを三枚とズボンを二足、それと全財産を詰め込んだ財布と貯金通帳を、高校時代に使っていたリュックに入れた。リュックは衣類のせいで肥えてしまい、少し不恰好なシルエットを描いている。ボストンバックに全て詰め替える手もあったが、やはりリュック一つで動き回ることが理想的である。そのため、僕は形の崩れたリュックを背負うことに決めた。
マンボウよ、僕がいなくなっても悲しまないでくれ。
背後をゆっくりと泳いでいるマンボウに向けて、心の中で呟いた。
もちろん返答はない。彼はただ、その小さな口から気持ちばかりの泡を吐くばかりであった。小さな泡たちは揺れながらも天へと昇り、天井で一つの塊になった。
さよならイワシたち、さよならタツノオトシゴ、もう君たちとはお別れだ。
自室から玄関に辿り着くまでに、多くのサカナたちと別れを告げた。進んでこちらに向かってくるものや、物陰に隠れてしまうものなど、リアクションはそれぞれである。
さよなら、みんな。
心の中でそう呟いて、僕は家の重いドアを閉めた。
***
家を出ると、冬の存在感を人々に知らしめるような、不親切な空気に体を覆われた。呼吸をするたびに、口元から発せられる白い息が視界の隅で踊る。
僕はあまりの寒さに、ダッフルコートのポケットに深く手を入れた。身を小さく振るわせながら歩き、かじかんだ手の感覚を取り戻し始めた頃合いにバス停へと到着した。そして、六時過ぎに来るであろうバスを待つ。
マフラーを持って来るべきだっただろうか。途中で使い捨てカイロを買おうか。
スマートフォンを家に置いて来てしまったために、手持ち無沙汰になった僕の脳内はそんな取り止めのないことばかりを考え始める。
久々に出た街はクリスマスに浮き足立っていて、どうにも取っ付きにくい雰囲気を発している。なんだか自分が浮世離れしてしまった気分で、防寒具に身を包んでいそいそと足を進める人々や、白い息を吐きながらバスを待ち遠しそうにする隣の人々を僕は冷視してしまった。きっと、去年までの僕はあっち側の人間だったはずなのに。
此岸で毎日をそれなりに楽しく過ごしていたのに、あることをきっかけに彼岸まで渡って来てしまったのだ。当たり前のように積み重ねてきたものが、ある日突然、ガラガラと音を立てて崩れてしまう。そんなことは、人間にとっては稀なことではないのかもしれない。
あたりがすっかり暗くなってしまった頃、目的のバスが現れた。車内は帰宅時というのもあって、ある程度人で埋まっている、しかし、なんとか最後列の席に座ることができた。
暖房の風、人々の匂い、座席に残った前の乗客の温もり。ついさっきまでいた冷たくて広いバス通りと比較すると、車内は甘味な空気で満ちているように思える。
ドアが閉まる音がしてバスが走り始める。すると、停留所の目と鼻の先にある元自宅が次第に右へとスライドしていき、窓枠から外れて見えなくなってしまった。幼い時から何度も目にした瞬間であったが、今の僕からすると感慨深いものがあった。
ついに、あの家から出たのだ。
もう振り返っても、あの家を見ることはできない。もう、戻ることはできない。
今思えばあそこでの生活は、さながら透明人間のようだった。産声を上げた時点から、比較という呪いによって指先まで縛り上げられ、僕は自身の一挙手一投足にまで神経を張り巡らせながら生きてきたのだ。
「なんでお前は」
「お兄ちゃんはできたのに」
「兄弟なのに」
「なんで?」
目を瞑ると、堰を切ったようにそんな言葉が脳内で溢れ出す。暗闇の中を浮遊する僕を、そんな言葉が責め立てる。
「なんで?」
僕が問いたい。
暗闇の中に、大嫌いな兄の背中が浮かぶ。
「なんで?」
その広くも狭くもない背中に問う。何度も悪夢の中で反芻した。
なんで兄弟なのに、こうも違うのか。なんで同じ親から生まれたのに、お前にはできて僕にはできないんだ。なんで同じ家で育ったのに、こうもみんなの対応が違うんだ。
何度も、何度も何度も何度もそう思って、その背中を見つめた。一向に振り返らない背中が、より一層僕を虚しい気分に追いやる。
理不尽な現実と周囲の目を誤魔化しながら、僕は必死に生きてきた。周りを騙すために、自分の心すら欺いてきた。それで上手くやっているつもりだった。実際に、それなりに自分の居場所を確保することができていた。だが、今年の始まりにそんな努力も全て、足元から無惨にも崩されてしまったのだ。名の知れた大学の受験に、ことごとく失敗したのだ。
天変地異のような衝撃であった。
最後の希望であった大学の合否結果を見た瞬間を、今でも鮮明に覚えている。まるで深海に沈められたように突然辺りが暗くなり、体に力が入らなくなってしまった。光も音もほとんど届かない一方で、呼吸が困難な感覚だけがそこに妙な現実味を与えていた。上に向かえば、まだ光はある。遠くとも、まだ微かながら光が揺蕩っているのが見える。
たくさんの泡が口や鼻から這い出て、鯉のように上へと泳いでゆく。だが、僕の体は鉛のように重く、ただひたすらに闇へと沈み、溶けてゆくばかりだった。
その時、ついに僕は社会から隔絶されてしまったのだ。
無論、世間体を幼い時からあてがってきた両親がそんな僕を許すわけもなく、元来から所在のなかった家では、呼吸をすることさえはばかられた。
世間はこのような人間に、「落伍者」という烙印を押すのだろうか。たとえ大学に落ちたとしても、来年に備えられる人間はいくらでもいる。一つの道を断たれても、別の道を探して前に進める人間だって多くいる。それでも、平均値以上を目指す上昇主義を脳に刷り込まれ、順調な道程を歩む兄ばかりを見ていた僕には、そこから打開する手立ても気力も残されてはいなかった。
その日から僕の目には、サカナが見えるようになった。
***
バスが駅前に到達すると、僕は下車する人々に混じって駅の構内へと向かった。久々に来た最寄駅は一部改修が進んでおり、見慣れた光景の中にアクセントが加わっている。そのせいなのか、どうにも今いる場所から、自分という存在が浮いてしまっているような気がしてならなかった。
電車に乗り込んでしばらく揺られた後に、目的の駅に降り立った。紋切り型の駅のホームだけを見ても、ここがどこなのか判然としない。だが改札を抜けて、その街の顔とも言える建物や、そこで暮らす人々の顔を見ると、やっと自分の所在がわかるようだった。吸い慣れない街の空気を肺いっぱいに吸うと、冷たい空気が鼻に染みる。そしてその後、微かに甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
駅近くの繁華街は年末だからかクリスマスの空気感に色めき立っている。巨大なクリスマスツリーや気持ち程度のイルミネーション、そしてクリスマスケーキの予約を促すコンビニの垂れ幕なんかを尻目に、僕は歩き慣れない街を進んだ。
プレゼントもクリスマスの飾りも、足を止める価値のないガラクタだ。いかんせん人生の先行きが怪しい今の僕には、そんな一過性の楽しみを味わう余裕などないのだ。そう考えながら、ただ歩いていた。
しかし、花屋の前に飾られた赤いガーベラが僕の歩みを止めた。細い茎の先に咲いた、大きな花。子どもが描いた花の絵にはないような緻密さがある一方で、大胆なシルエットが夜の空気に浮かんでいる。その姿はとても繊細でいて、強かさを兼ね備えていた。軽くなるばかりの財布を取り出して、半ば本能に導かれるかのように僕はその花を買ってしまった。
微かな後悔を胸にぶら下げつつも、今度こそ冗長性に満ちた繁華街を抜けて、僕は住宅街の方へと足を進めた。
しばらく歩くと、さっきまでの雑踏がまるで幻だったかのように、辺りの一軒家やらアパートやらには華やかさがなくなっていた。所々にクリスマスの飾り付けをする建物が目に入ったものの、周囲の建物は暗いままであることから、きらびやかというよりは逆にぽつねんとしている印象を受けた。
肌を刺すように冷たい風が時々吹き、それに頬を撫でられるたびに詫びしい気分になった。善かれと思って買った花も、今ではポケットに手を入れられない原因となっている。それでも、惨めな気分になることだけはなかった。なぜなら、もう以前までの家に帰る必要がないからだ。加えて、新たな家に向かっていることへの高揚感から、今ならばどんな苦痛も意に介さない自信があった。
久々に寒空のもとで長距離を歩いたことによって足が痛み始めた頃、僕はこの旅の一旦の目的地を見つけた。そのマンションはとても小さく、タイル張りの外壁とオートロックの入り口がなければ、アパートと思ってしまうほどのものである。だが、それで良いのだ。
家が大きいと、物理的にも心理的にもそこに住む人々の心はバラバラになってしまう。以前までの生活で、その悲しい現実を痛感した。だから、今度の生活はこんな小さなマンションで送られた方が、逆に好ましかったのだ。
このマンションに入れば、ついに僕の旅は不可逆的なものへと変化してしまう。でも、元の生活に未練なんてなかった。他者との比較という忌々しい社会の目に、もう晒されるのはこりごりだ。僕はマンションに入り、目的の部屋番号を押した。
ロックが解除されると、エレベーターに乗り込んだ。そして、三階のボタンを押す。現在の階数を指すインジケータが1から2になり、それとともに緊張感と高揚感の混じり合った鼓動の加速を覚える。インジケータの数字が三を示すと、エレベーターは大きな揺れとともに止まった。おもむろに開くドアの隙間から廊下へと出て、僕は左へ曲がった。
突き当たりの部屋まで歩き、一度身なりを整えた。そして冷たい空気に晒されて、かじかむ指先でインターホンのボタンを押す。
ほんの一瞬の間があって、中から廊下を小走りする音が聞こえた。ドアがガチャリと音を立てて開いて、部屋の中から出た暖かい空気が僕の顔と指先を包んだ。
「いらっしゃい」
ドアから顔を出した女性は、そう言って笑った。
「今日、寒かったでしょ」
「うん」
僕は彼女に笑顔でそう返して、新たな自宅へと足を踏み入れた。