紫
「さぁてと。どこから見ていこうか?」
紫と名乗ったその人物は、わたしの手を引いて、京の都へと連れ出してくれました。
今は夜。
真っ暗で何も見えない。
『あ、あのぅ……』
わたしは少し心配になって、紫に声をかけました。
「ん? どうしたと? 暗いから心細くなったと?」
そう言って、わたしを覗き込む。
紫の目の色は、深い緑色をしている。
常磐色……というのでしょうか?
針葉樹を思わせる鮮やかな緑色は、暗闇にも関わらず、魅惑的に輝いていて、とても綺麗……。
わたしは小さく頷く。
暗い夜道など、あの時以外、歩いたことがない。
そんなわたしを見て、紫はくすりと笑いました。
「ふふ。大丈夫、大丈夫。ウチがおるけん、危なかこつにはならんよ?」
『……はい』
別に、信用していないわけじゃありません。
紫は、わたしを連れ出してくれました。
暗くて冷たくて、悲しい気持ちになるあの場所よりも、ここはまだ自由であったかくて、いいところ……だと思います。
『……』
けれど狭いあの空間よりも、広く自由のあるこの場所は、不安になるのです。
何をすればいいのか分からない。
じわじわ、じわじわと余計な不安も頭をもたげて来るのです。
暗闇に何かが、潜んでいるんじゃないかしら……?
どこかで誰が、私たちのことを覗いている……?
── …………は、どこ…………か…………。
『!』
どこからか、低い唸り声と共に、強い視線を感じました。
わたしはゾッとする。
ゴクリと唾を飲んだ。
い……いいえ。
そんなことはありません……。
きっと、きっと気のせいですわ……。
わけの分からない恐ろしさに、心なしか体が震えてしまう……。
記憶が曖昧なわたしには、この夜の暗闇はとても心細い。
まるで底の見えない暗くて深い水底に、引き摺り込まれているような、
そんな感じ……。
──ぞく……っ。
『……っ、』
わたしは怖くなって、自分を抱きしめる。
暗くても、冷たくても……それから寂しくても、あの狭い空間の中、わたしは護られていたのではないかしら……?
本当は、出て来てはいけなかったのでは、ないかしら……?
思わず、そんな風に思ってしまう……。
「ほら! 見てごらん。あそこは光りがついとるよ!」
『っ!』
紫の言葉に、思わずわたしの体が揺れる……!
驚いたわたしを見て、紫も目を丸くしました。
あ。……あぁ。怖がりすぎですよね……。
わたしは驚いている紫に、小さく微笑み返す。
……なんだか、恥ずかしいです。
紫が指さしたその先は、篝火がいくつか灯された、とても大きなお屋敷で、紫が言うように、まるで昼間のように明るかった。
わたしはホッと胸を撫で下ろす。
たった今感じた不安は、きっときのせいなのでしょう。
篝火は、暗闇の中から見ると、とっても明るくって綺麗でした。
『まぁ……。凄く立派なお屋敷……』
建物はいくつも連なっていて、その一つ一つは目を見張るほど巧妙に造られています。
先程は、あんなに不安に思えていた外の世界に、いつの間にか魅了されてしまう。
あぁ、やっぱり出て来て良かった……。
建築物には、良い木材を使用しているようで、欄干はツヤツヤとしていて、美しい。とても木材には見えません。
まるで甘い蜂蜜のように、トロリとした質感の手すりは、触れてさえみたくなる。
壁や柱に施された細工は、緻密で美しく、篝火に照らされたそれらは、幻想的な紋様を浮かび上がらせていました。
思わずわたしは駆け出して、敷地の中に入り込む。
本当に、大きなお屋敷……。いったい幾つの建物があるのかしら?
わたしは辺りをぐるりと見渡します。
少し離れた場所には、池があるようで、チョロチョロと水の音が小さく聞こえました。
あれは、橋の欄干かしら? 朱塗りのなにかが暗闇の中で、微かに見ることが出来ました。
もしかしたら、鯉がいるかも!
思わず走り出しそうになって、私はハッとする。
『あ! わたしったら、勝手に入って、良かったのかしら……?』
入り込んでしまった今になって、私は気づく。
……ここは誰のおうちなのかしら? 勝手に入って良かったのかしら? そんなわけ、ないですよね……。
恐る恐る後ろを振り返る。
そう言えばいつも姉さまたちに、叱られた。
──もう少し、大人しくなさいませ? 本当に、姫さまらしくないのですから……!
『……』
呆れたような、そんな姉さまたちの声が聞こえてきそう……。
確か門番の前を、通り過ぎたように思います。
もしかしたら、ものすごく怖い顔で、追いかけて来ているかも知れない。そしたらきちんと謝りましょう。
そんな事を思いながら、顔を上げました。
『……あ。』
けれど、そんな心配はしなくてよかったようです。
わたしの後から、紫がゆっくりと歩いて来ていました。
紫は、勿忘草色の涼やかな水干の下に露草色の袴をはいています。
前にも思ったけれど、紫は男の人……? それとも女性かしら……?
着物だけ見れば、男性にも見える。けれど漆黒のサラサラとした線の細いその髪は、男性にしては長く、後ろでくるりと緩く束ねていました。
顔は中性的で、声も高くもなければ低くもない。
どちら……なのかしら?
そう思いながら、わたしは自分の髪を見てみる。
……んー。私の方が少し、短いかも……?
だったら、女性かしら?
でも、本人に聞くのは、失礼な気もします……。
尋ねようかどうしようかと悩んで、結局私は聞かないことにしました。必要な時が来たら、その時嫌でも分かりますもの。
男性にしろ、女性にしろ、紫は魅力的な容姿をしています。
勝気なその顔はとても整っていて、夏だと言うのに汗ひとつかいてはいないのです。風をその身に纏い、涼やかに歩く姿は颯爽としていて、思わずほぉっと溜め息が漏れました。
そうして、門の前に立っている門番に、紫はヒラヒラとその細い手を振って、バカにしたように薄く笑うのです。
──……バカにしたように……?
何故、そんな風に思ったのかは分からない。
けれどその時わたしは、そう思ってしまって、歩みを止めました。
ほんの少しわたしは、その事が気になったけれど、それよりも目の前の素晴らしい建物が見たくって、すぐにその事は頭から消えていく。
門番は、追いかけてなど来ませんでした。
じっと人形のように立っていて、ピクリともしない。
そうか……紫はきっと、このお屋敷の人なのかも知れない。
だから、門番は追いかけては来ないのでしょう。
わたしは、そんな風に思いました。
紫はわたしに追いつくと、屋敷の中を見てみないかと持ちかけてきました。
わたしは嬉しくって、すぐさま頷きます。
『見てみたいです! こんな素晴らしいお屋敷、見たことないもの!』
「ふふ。喜んでもらえて良かった。ほら、こっちに来てみてん?」
草履を階の下に脱ぎ捨てて、わたしたちは足音も軽く、建物の中に入り込む。
床はいつも丁寧に拭きあげられるのでしょう。塵ひとつなくて、歩くと少しキシキシと軋みました。
──「誰ぞ!?」
急にあがった誰何の声に、わたしはビクッと肩を震わせる。
誰かがいる!
怒られるかもしれない……。
思わず身を強ばらせる。
そんなわたしの肩に、紫は手を置いて、耳元で囁きます。
「ふふ。大丈夫。心配せんでよかとよ……」
言って、紫は声の主に呼びかけました。
「ウチやけん、大丈夫とよ? ちょっとお邪魔するけんね……」
すると中から声がしました。
「あぁ……私は、気にしすぎていけませんわね……」
「ふふふ。君は、少し神経質過ぎるよ……?」
言いながら紫は、御簾の間から体を滑り込ませます。
わたしもそれに倣って中へ入りました。
『あ、いい匂い……』
部屋には伽羅の匂いが漂っていました。
今、香は焚かれてはいない。匂いは残り香なのでしょうか……。
わたしはふと思います。
高価な伽羅を、残り香がするほど焚けるのは、余程高貴な人に違いない……。その知人である紫も、きっと高貴な人なのでしょう。
几帳の隙間から、艶やかな十二単の着物が垣間見えました。
先程の声の主なのに違いありません。
わたしは緊張しつつ、挨拶をしました。
『あ、あの……。お邪魔致します』
「……」
けれど相手からの返事はありませんでした。
困って紫を見ると、紫は唇の前に人差し指をあてて、面白そうに笑っています。
「しー。家主は今、書き物をしとるけん。邪魔したらいかんとよ」
『あ……っ』
慌てて両手で口許を覆います。
「ほら、こっちこっち……」
紫が別室から手招きする。
わたしは几帳に向かって、軽くお辞儀をすると、紫の後を追いかけました。